手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新築ラッシュ

新築ラッシュ

 

 このところ私の家の近所はどこも取り壊されて、新しい家を建てています。大概はそこに住んでいた老人が亡くなり、その子供さんが家を相続し、財産を分配するために家を壊し、土地を売り、売られた土地にはマンションか、建売住宅になります。

 高円寺は、大正12年関東大震災の際に、日本橋や、浅草あたりの東京の中心街に住んでいた人たちが、震災の被害で家を失い、郊外に家を求めて引っ越してきたことで発展しました。従って、大正末期から、昭和初年にかけてこの辺りは建築ブームになったようです。当時は、一軒の敷地が70坪ほどもあり、広々とした家が並んでいたようです。今でも、当時の宅地を整地したときのままの敷地に住んでおられる人もいます。

 然し、大概は、昭和20年の空襲で破壊され、急ぎ仮りの家を建てました。その時に、東京全体が住宅難だったために、家の中に下宿用のアパートを作ったり、家の敷地の半分をアパートにして二棟建たりと、当初の閑静な住宅街が、ややせせこましくなって行きました。

 そうした家が、70年くらい経って今、壊されています。

 私の家の隣も、またその奥も、アパートを併設した個人住宅でした。長らくお婆さんが一人で住んでいましたが、アパートは無人で、相当に広い部屋数を持った家なのに、老人一人が暮らしていました。駅からも便利ですし、通勤するには何も問題はないと思いますが、子供さんもお孫さんも同居をせず、お婆さんが一人で住んでいました。

 ただしこのお婆さんは、なかなか問題で、人との付き合いはせず、何かにつけて苦情を言ってきます。苦情は些末なことばかりです。

 実は、こうしたお婆さんが近所に五人はいました。初めに引っ越して来た時に、近所のある若い奥さんが、「この近所は、うるさいお婆さんが何人も住んでいますけど、余り相手にしない方がいいですよ」。と言われました。実際それは事実で、想像する以上に気難しい人たちが何人もいました。

 この人たちは、初めから気難しい人ではなかったのです。昭和39年の東京オリンピックの際に、私の家の前に環7と言う大動脈が出来ました。この道が出来る時に大きな建築機械が入り、毎日相当な騒音が響きました。更に、国に土地を売った環7周辺の地主が、残った敷地にマンションを建てました。これがまた連日、ものすごい騒音でくい打ちをしたため、近所の住人はすっかりノイローゼになってしまいました。

 当時、環7沿いに住んでいた人たちは騒音災害に悩まされ、日照権を奪われ、穏やかな生活が一遍に殺伐としたものになったのです。そして、その後、地震や防火の対策として、家を建て替えるときには、木造建築は認められず、鉄筋、鉄骨にしなければならないと言う法律ができ、周辺の家はやむなく鉄骨造りになって行き、その都度、10mもの深い杭を打たなければならなくなりました。そのたび家が揺れるほどのくい打ちの振動と騒音に悩まされ、住人はすっかり人間不信に陥ったのです。

 私の家を建てる際、4階建てのビルのために、建築屋さんが近所の了解を取りに行ったところ、どこも押し売りを見るような目で見られ、話を聞いてくれなかったそうです。私が、菓子折りを持って一軒一軒あいさつに回ると、受け取らない家が何件もありました。

 くい打ちが始まると、毎日見に来て、苦情を言うお婆さんが何人もいました。「迷惑です。うるさくて眠れません」。と言います。くい打ちは、うるさいことは事実ですが、私の家のような極小建物は、杭4本ですから半月もかかりません。それでもお婆さんが毎日来ては苦情を言われました。

 そんないわくつきの家ですから、近所が良く言うわけはありません。私が朝、挨拶しても無視されました。近所のみんなが被害妄想にかかっていたのです。

 家を不燃化しなければならないことは、国が決めたことです。今、木造で建っている家も、建て替える際には鉄骨造りにしなければならないのですから、お互い様なことなのですが、そんなことはお婆さんにはわかりません。

 騒音を出す人は悪い人なのです。一軒の騒音が収まったと思うと、また近所で家を建て替えるために騒音が発生するのですから、結局、心の休まる日がないのでしょう。

 初めは「意地の悪い人が多いなぁ」。と思っていましたが、お婆さんの立場に立ってみると、文句を言う気持ちは分かります。頭の中が時代に追いつかないのです。お婆さんにすれば、平屋が並んでいた、昔の高円寺のままでいてほしいのです。周囲にビルが建ち、いつの間にか平屋は自分の家だけになって、日も当たらなくなり、古ぼけた家に住んでいると、一人世の中に取り残されたように思うのでしょう。

 周囲に当たり散らし、気難しい性格になれば、息子や、孫も近づかなくなります。そうして一人寂しく亡くなって行きます。すると、息子がやって来て、家を不動産屋さんに売ってしまいます。

 私を見ると嫌味を言うお婆さんでしたが、そのお婆さんの家がいとも簡単に壊されて行くのを見ると、人の命は儚く、その人の大切にしていた風景もまた儚く消えて行くものだと思います。

 その家が今日、きれいに無くなりました、ショベルカーが4日間入って、家を崩しました。解体屋さんが4人で家を壊し、壊れた廃材は2t車で何度も運ばれて行きました。

 崩れた廃材をまとめて、車に積んでいる人の一人は、若い黒人でした。背が高く190㎝くらいあります。「どこから来たの」。と聞くと、「セネガル」と言います。セネガルがどこかが分かりません。尋ねるとアフリカだそうです。「アフリカは暑いの」、と聞くと「暑い」と言います。そうならこの数日は寒かったから外の仕事堪えたでしょう。と聞くと、「寒かった」と言います。「でも大丈夫」。と言って笑っていました。

 高円寺で普通に暮らしていても、セネガルの人がやって来て、毎日働いています。これが国際的な都市なんだと言えばその通りですが、国際都市だからなんだと問われても何とも言えません。寒そうなセネガル人を見て、気の毒にと思います。20年前ならあり得ない風景です。

続く