手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

蹇蹇録(けんけんろく)

蹇蹇録(けんけんろく)

 まだ10代の頃、子母澤寛の「父子鷹(おやこだか)」を読んで、勝海舟の人となりに興味を持ち、その後、「氷川清話」「蹇蹇録」などの海舟の著述を読むにつれて、ますます勝海舟に引き付けられ、あんな自由なものの考えが出来て、人に重用されて生きて行けたならどんなにいいかと、ずっと勝海舟に憧れていました。

 何と言っても海舟の生き方は洒落ているのです。生まれついての江戸育ちで、貧乏とは言え、旗本の家に生まれ、江戸の太平な時代に育った人だけに洒落心が染みついています。

 どんなに大きな仕事を成し遂げても、自慢せず、成果の代償を求めようとしません。

 その洒落が時々思わぬところで出て来ますので、周囲を圧倒し、時には権力者から不興を買います。

 西洋船の咸臨丸を操舵して幕府の使節を引き連れてアメリカに渡り、アメリカ大統領に親書を手渡す、と言う大仕事をやってのけた後に帰国をし、江戸城に伺候した際に、老中から、

 「さぞやアメリカに行ったなら、変わった話もあっただろうが、日本とアメリカではどんな違いがあるか話してほしい」。

と言われて、「そうですねぇ、別段これといった違いもないのですが、一つ、アメリカでは能力のある人ほど高い位に就いています。そこが日本との違いでしょうか」。と言って、大目玉を食らっています。

 こんな性格ですから、海舟の才能を知る人にはとことん愛され、海舟の、皮肉で歯に衣着せぬ物言いを嫌った人には徹底的に嫌われました。そのため、幕府時代から、上司が変わるたびに出世したり失業したりを繰り返していました。

 

 海舟は若いころから幕府が西洋式の海軍を持つ必要性を語っていました。実際にその考えは通り、開港したての神戸に海軍伝習所を設けます。この時に、旗本ばかりでなく、全国の侍の子弟を集め、西洋式軍艦の操舵法を指導します。その中には坂本龍馬のような浪人までもが混ざっていました。

 この海軍立ち上げの活動の中で、薩摩の西郷隆盛や、長州の桂小五郎などとの人脈が出来て行きます。

 もとより海舟は、一橋慶喜からも信頼を得ていました。そして慶喜が将軍に出世をすると、海舟も幕閣となり、最終には海軍大臣にまで出世します。

 そして、薩長軍が江戸まで攻めて来て、江戸城総攻撃となるときに、海舟が幕府側の責任者となって、西郷と交渉をします。幕府にとっても日本にとっても幸運だったことは、この交渉の責任者が、慶喜にも信頼され、西郷にも信頼されていた海舟がいたことです。まさに海舟は天の配剤で、こうした人物がいたからこそ江戸の町は守られたわけです。

 

 実は、江戸を守る指導者が勝海舟で、薩長軍の責任者が西郷隆盛であると言う時点で、江戸の総攻撃と言う手は既になかったと見てよいでしょう。然し、全くあり得なかったかと言うならそうではなく、300年にわたる幕府に対する恨み、或いは京都での蛤御門の戦いや、長州征伐によって多くの死者を出した長州などは徹底的に幕府の旗本と戦うべきだと主張してやまなかったのです。

 そこで、西郷と会談を重ねるうちに、勝は意外な話をします。「薩長軍が江戸を攻めると言うなら、我々は、すぐさま江戸市民を船で下総(千葉)に退避させます。そして人のいなくなった江戸を薩長軍が占領したなら、江戸の乞食の元締めと示し合わせて、江戸の数十か所から火事を起こします。大きな炎に囲まれた数万の薩長兵は大火の中で逃げ場を失い、たちまち焼け死ぬでしょう」。

 官軍の猛攻撃に対して、江戸を大火から守ったと言われている勝海舟が、江戸を大火にして薩長軍を打ち負かす秘策を西郷に語ったのです。これは本心かどうか、

 恐らく海舟は、西郷に、「血気にはやる兵士たちに、この話をして聞かせなさい、そして、一時の血気でことをしても成功しないと言うことを話しなさい」。と言ったのでしょう。

 頭のいい西郷は勝の意図するところがよくわかったはずです。才能があって、互いを知合うもの同士が話し合えば、大きな失敗はないのです。

 但し、この自国の市民を退避させて、敵軍を市内に引き込んで火事で焼き殺す戦法は、1812年にナポレオンがロシアを攻めたときに、モスクワでこの作戦に引っかかり、大敗を喫し、そこからロシア侵攻の敗北につながった契機の戦いなのです。

 

 ここで私がなぜ勝海舟の話をしたのかお判りでしょう。そうです、ウクライナです。

 なぜロシア軍が、首都キエフの目前まで来ていながら、キエフを攻めないのか、と言う問題に対して、識者は、「ロシア軍に燃料がないから」。などと言っていますが、燃料がないなら、早くに攻め込んで首都を取るべきです。待っていても燃料は増えません。そうではないでしょう。200年前のロシアの対ナポレオン戦法で、今度はロシアが負かされる可能性があるからです。

 もしロシアがその戦法を承知して躊躇しているのだとしたなら、一歩話を進めて、なぜここで勝海舟のような知将が出て来て、キエフを占領することの無意味を語って聞かせられないのでしょうか。ロシアにも、ウクライナにも勝海舟はいないのでしょうか。

 

 海舟は晩年に「戦いと言うものは、勝つことばかり考えているとおごりが生まれ、方向を誤る。逆に守りにばかり専念していると委縮して前に進まなくなる。常に戦いと言うものは、勝敗を度外視して虚心坦懐でいなければいけない」。と語っています。

 このことは今回のウクライナのロシア侵攻をうまく表現しています。絶対勝てると考えて、大量の兵器を以て大軍を侵攻させたロシア軍が、案外ミスの連発で躓き、失敗を繰り返しています。逆に、勝てるかどうかもわからないウクライナ軍が、勝敗を度外視して闘っている姿が案外世界の共感を生み、各国から支援を受けています。

 今もウクライナは戦闘中であり、決してロシア軍に勝利したわけではありません。勝利の道はかなり遠いと思いますが、早く勝海舟が現れて、互いの解決策を提示することが平和への解決だと思います。海舟のことはこの先もお話ししましょう。

続く