手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

オミクロンを吹っ飛ばす

オミクロンを吹っ飛ばす

 

 連日オミクロンのニュースを延々と流すテレビ局に対して、いい加減嫌気がさしていたところに、ウクライナ侵攻のニュースが飛び込んで来て、テレビ局は一斉にウクライナを朝から夜まで報道し続けています。

 もう話題はオミクロンではない、と言いたいのでしょうか。ウクライナ空爆や、原子力発電所の占拠の話を朝から晩まで映像を流し、もっともらしい解説をしています。

 中東紛争の時もそうでしたが、結局他国の戦争は他人事です。こどもが死んだ、避難民が虐殺されたと、その場その場では悲痛な顔をして報道していますが、報道する側は興味を超えた内容を語ってはいません。どこまで行っても人ごとです。

 EUも日本もロシアに対してその都度非難声明を出しますが、ロシアが核をちらつかせると、たちまち口をつぐんでしまいます。EUは一時ウクライナに戦闘機の供与まで言っていたのに、いざロシアが吠えると、戦闘機の話はうやむやになりました。ウクライナEUの弱腰をなじっています。

 そればかりか、EUへの加盟自体も可能性が薄くなっています。どうしてウクライナEUに加盟できないのでしょうか。理由など見当たりません。理由があるとしたなら、ウクライナはロシアの隣に存在しているからでしょう。ロシアがだめと言えば駄目なのです。ウクライナの不幸は隣にロシアがいることです。その関係は200年全く変わっていないのです。

 それにしても日本政府も、EUもだらしがないと思います。ロシア一国の我儘を誰も抑えることが出来ないのです。

 ゼレンスキーさんの心中を思えば、EUアメリカも日本も、余りにウクライナを他人事に捉えています。明日は我が身であることに気付いていないのです。

 野生の動物は、群れを成して生活しています。虎がやってくると鹿の群れは一斉に逃げます。然し、一頭の子鹿が捕まって食べられると、たちまち群れは足を止めて、また草を食べ始めます。彼らにすれば、子供が食べられたことで今日の危険はしのげたのです。今日一日は安全なのです。ウクライナEUのやり取りを見ていると、シカの群れの中の小鹿を思わせます。抜本的な解決など考える政治家はいないのです。

 そのロシアももう体制が死に体になってきています。今回のウクライナ派兵でロシアはこの先、大きく経済が疲弊してくるでしょう。数年のうちにプーチンさんは失脚をし、10年を待たずに国内で政変が起きるのではないかと思います。

 

 ニュースがウクライナに集中したなら、コロナの問題には解放されたのかと言えば、依然として蔓延防止条例は施行されたままです。ウクライナ侵攻のさ中、3月2日に条例が延長されて、これで今年一月から三度の延長を繰り返しています。そもそも蔓延防止条例に何の意味があるのか、それそのものが、日本人の日常生活を縛り付けています。

 ご存じとは思いますが、マスクや手洗いをすることも、レストランの入場の際に検温をすることも、そして蔓延防止条例に従うことも、それらはすべて法律で規制されたものではありません。個人個人の判断に任せて守って行こうとする、いわばマナーのようなものです。

 まったく自由裁量なのですが、実際、喫茶店でも、コンビニでも、マスクなしで入ろうとすると、注意を受けます。「マスクはありますか」。と尋ねられ、「ない」。と言うと、ご丁寧にマスクをくれます。そして着用を求められます。つまりマスクは強制なのです。

 そして蔓延防止条例は、多くの飲食店に制限を加えています。夜にアルコールを求めて町をさまよっても、4人以上の集まりでは店では呑めません。数人で店に入っても8時以降はアルコールが出ません。結局、1920年代のアメリカのように、禁酒法が施行されているかのごとくです。

 蔓延防止条例が解放されないと、パーティーが催されません。パーティーがなければショウの依頼も来ないのです。

 日本がだめならいっそ海外に出て活動しようと考えても、いま日本から海外へ出ることも、移住することも不可能です。ずっと仕事のない状態で、我々は日本に閉じ込められています。どう生きて行けばいいのでしょう。

 私も、弟子の大樹も、一門も、みんなショウの出演の場がないまま打つ手がなくかろうじて生きています。蔓延防止条例は、我々芸能人の生活を脅かしています。

 

 オミクロンは罹りやすいとは言っても、誰も彼もが罹るわけではありません。風邪と同じく、流行はしても、みんながみんな罹るわけではないのです。そして、罹ったとしても重症化などほとんどしないのです。

 ヨーロッパ、アメリカではノーマスクで町を歩いても問題なく、夜の飲食も普通にできるようになっています。日本だけがオミクロンを過大に考えて、マナーを法律の如くに厳格に守っています。

 健康を第一に考えることは大切なことですが、余りに過剰な反応は、国民の生活を疲弊させます。自主判断でことを求めるなら、あくまで自主判断としてください。マスクをしない人、手を洗わない人を責めないでください。

 私は三度のコロナの注射を打ちました。そうなら三度注射をしたという証拠のバッジやシールをください。それを胸に貼った人は、感染もしていないし、人から感染される可能性も少ないのですから、より安全なはずです。優良な人であると言うバッジをください。その上で、マスクをしなくてもよい。夜飲食をしてもよい。パーティーに出てもよい。と言う決まりを作って下さい。

 そうした人が少しでも町に増えてくることによって、過剰なコロナに対する反応が薄れて行くはずです。みんなが出歩かなくなって、今や町は閑古鳥です、新幹線に乗ると毎回、一車両に数人しか乗客がいません。これでJRがやって行けるはずがないのです。

 JRがだめなら、売店のおばさんも生活できません。駅前の立ち食いソバ屋のお兄さんもやっては行けません。誰も彼もが生活が成り立たなくなっています。何が原因でしょうか。

 みんな意味のないことに向きになり過ぎているのです。あまりに過剰な反応をしているのです。みんなで普通の生活に戻りましょう。過剰な反応をする人がいても結構です、でも普通に生きる人も認めて下さい。それが社会です。

続く