手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

不登校少年 2

不登校少年 2

 

 H君は、毎週1回、朝にしている稽古を、2回に1回くらい休むようになります。学校の用事だのなんだのと言って来ますが、恐らくはお婆さんから交通費がもらえないのでしょう。私の稽古は無料でしていますから、とにかく来れば習うことは出来ます。然しそれが出来ないのです。

 H君が、マジックや鼓を覚えたいと考え、行動したことは、人生の前進でした。H君としては珍しく積極的な行動に出たのです。然し、アルバイトをして、鼓の授業料や、交通費を自らが捻出しなければ、日々の活動は出来ません。そうしなければ誰からも支援がないのです。

 私も、ギャラを払って彼を助けてやりたいのですが、彼に私のアシスタントをさせるほどには信頼して仕事を任せられません。何しろ、ちょっときつく言うと、すぐにどこかに隠れてしまいます。舞台前にそれをされたなら万事休すです。

 つまりは使えないのです。但し、見ていると、音楽に対する感覚は鋭いものがあります。鼓は次々に稽古を仕上げます。およそ普段は大きな声を出さない少年なのに、鼓の掛け声ははっきりと、「いよっ」、「いやーぁ」、と声を出します。そして間(ま)を外しません。私よりは素質があります。それをお師匠さんは喜んでいます。

 鼓のお師匠さんはH君を鳴り物の発表会に出そうと言い出しました。邦楽の発表会と言うのはとても費用が掛かります。無収入の少年では支払う能力はありません。

 私は反対しましたが、お師匠さんは、「出世払いでいいですよ」。と言います。いや、そんな風に面倒を見ては、むしろ彼のこの先の活動に負担がかかります。然し、H君は鳴り物の発表会に出ることになりました。仕方なく私の着物袴を貸しました。恐らく人生で一番幸せな瞬間だったでしょう。

 

 そうこうするうちに、私の舞台で、生演奏をしてくれている、三味線のお師匠さんが、H君の音感の良いことに気付き、試しに三味線の稽古をつけてくれました。お師匠さんは、

 「あなたは少し本気になって、三味線を勉強したらきっと上手くなる」。と言いました。ここからまたまた面倒な話が始まります。交通費すらも工面できないニートのH君が、今度は三味線の稽古です。

 私の知らないところで話は発展して、H君の地元で教えている三味線の先生を紹介され、そこで習うと言う話になりました。無論、私は反対しました。

「彼の家は特殊で、両親はいないのです。彼は引きこもりで仕事が出来ず、無収入です。とても稽古代を出して習い事のできる子ではありません」。

 私がそう言っても、師匠連中は面白がって、彼に稽古を付けようとします。H君も、習えるものなら習いたいと喜び勇んで出かけます。

 このころ、私の方は、マジックの世界大会を主催していて、そのためのスタッフとして彼を参加させたりしましたが、実際にはほとんど使えません。人とのコミュニケーションが取れないのです。単純作業は出来ますが、ステージハンドのような仕事は全く不向きです。

 但し、マジックの大会会場にいることは当人としては楽しいらしく、収入にもなりますから、毎日熱心にやって来ます。

 

 そうしてほぼ半年が経ちました。H君は、まだ弟子以前の、見習いの立場です。いや、実際には見習いにもなっていない状況です。こんなことをしていて彼にもいいことはありません。そろそろ結論を出さなければなりません。

 私はH君が心を開いて、人と話が出来て仕事をするようになれば、彼の性格は変わるだろうと考えていました。然し、そんなに簡単に人は変わりません。私はこの先彼を使うことは無理だと判断しました。

 ある日、三味線の師匠から、「ニケ月間月謝が支払われていない」。という苦情が来ます。私はその苦情を聞く立場にはありません。初めからニートのH君に指導をするのは無理だと言っていたのですから。

 彼とお師匠さんとの間でどんな条件で話をしたのかは知りませんが、いずれにしても初めから彼に支払い能力はないのです。やがて、H君は三味線の稽古にも来なくなります。

 紹介した三味線のお師匠さんが心配して、H君の家を訪ねてみると、家はボロボロで障子は破れ放題。貸した三味線は壁にぶつけて折れていたそうです。お婆さんは、その部屋でなすすべもなく座っていたそうです。

 つまり、H君は三味線も、鼓も、マジックも稽古に通いたいと思いつつ、全てはお婆さんからの小遣いに頼っていたのですが、お婆さんも支払うことが出来ず、断り続けていたのです。それに対して荒れたH君は物を投げ、三味線を壊し、自暴自棄に陥っていたのです。

 日頃はおとなしく、すぐにものに怯えるような態度をとるH君が、家ではお婆さんに暴力を奮っていたのです。H君はどこに行ったのかはわかりません。その後は私のところにも来ません。まぁ、私の予想した通りの結末です。

 

 このお話は、引きこもりのニートが弟子入りしてきたと言う、それだけ話なのですが、彼を見ていて思うことは、彼は周囲とコミュニケーションが取れない欠点はありますが、どこかで才能が認められれば生きて行けないことはないと思わせる何かがありました。そして、実際、周囲の人が彼を支えてあげようとする協力の輪が何度も出来たのです。

 ここでたとえば、両親がいて、わずかな支援でもしてやれたなら、彼の才能は伸びたでしょう。彼にとって不幸なことは、周囲の環境があまりに過酷だったことです。全てのことを17歳の少年が自分でやらなければならかったことです。チャンスの道はあったのですが、彼はそれを掴めなかったのです。

 

 その後、彼が私のところに訪ねてくることはありませんでした。彼は携帯電話を持たせてもらえませんでしたから、彼からの一方的な電話以外連絡が取れませんでした。

 私の方は、彼の後始末で、壊れた三味線の費用などを負担することになりました。弟子でも見習いでもないものの不始末を私が負担をすることはおかしな話ですが、結局H君に縁ある人の中で支払い能力のある人は私だけだったのでしょう。

 人を使うことは同時に人に使われることであり、人に投資をすることは、多くは見返りのない投資に終わることです。人にものを教えることも、人の師匠になることも、そのことを理解した上でなければ務まらないと知るべきです。

 H君は、今はもう20代でしょう。彼の人生で、マジックの稽古をしていた半年はきっと充実した幸せな人生だったと思います。それが実らなかったことは残念ですが、そこから何かを掴み取って、その後に巧く生かせて行けたならそれでいいと思います。

不登校少年。終わり