手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天王寺界隈

天王寺界隈

 

 昨日(25日)の朝、四天王寺に向かいました。先ず御堂筋線天王寺の駅へ、この駅は初めて降りましたが、駅の天井が高くて、作りの良さに驚かされました。恐らくこの駅がかつては御堂筋線の起点だったのでしょう。

 梅田から天王寺までをつなぐと、昭和の初年の大阪の殆どの繁華がつながったのでしょう。それにしても御堂筋線はどこの駅も天井が高く、私は好きです。東京に勝るぜいたくさです。

 駅を出ると地下鉄側がJRの天王寺駅で。向いが近鉄阿倍野駅でデパートがあって、その奥にあべのハルカスがそびえていました。さて、通天閣はどこかと見ると私の背中側に小さく見えました。

 通天閣は1912(明治45)年、に建てられました。元々は明治36年内国勧業博覧会(万博のようなもの)を、天王寺界隈で開催し、博覧会以後、元会場はルナパークと呼ばれ歓楽街になりました。

 町はパリの街を模して放射状に道が作られ、その中心に凱旋門が作られ、凱旋門の上にエッフェル塔を真似た通天閣を建てました。これが初代の通天閣です。高さ(70m)で東洋一を誇りました。今我々がハルカスを仰ぎ見る目と同じように、明治の人には通天閣は驚きの存在だったのです。

 通天閣は、もう一つのタワーとロープウェイでつながり、町の上空をロープウェイが走り、まるで未来都市でした。初代の通天閣は飲食店の火事で鉄骨が曲がり、やむなく解体。

 昭和30年に二代目が誕生。今度は100mの高さになりました。これも東洋一の高さだったのですが、昭和33年に東京タワーが出来て、王座の地位を追われました。

 

 通天閣はあとで見るとして、先ず四天王寺に行きます。四天王寺聖徳太子が593年に建てたもので、日本最古の仏教寺院だそうです。

 南の仁王門からほぼ一直線に伽藍が並び、中央は回廊で囲まれ、五重塔も、金堂も直線的な屋根で、まるでレゴで作ったお寺のようです。この作りが創建当時のものだと言われるとそうなのかと思います。但し、昭和20年の空襲でほとんどが焼けて、今ある建物はコンクリート造りです。

 さて、このお寺さんで、江戸の末期に一田庄七郎が、25mもある涅槃像を竹で編んで作ったという記録があるのですが、それほど大きな興行をどこで行ったのか。お寺さんに尋ねたのですが、どなたもご存じありませんでした。

 私の推測では四天王寺学園あたりか、もしかすると江戸時代のお寺は、もっと広い敷地があったようですから、動物園に近い所でやっていたのかも知れません。とにかく詳しいことはまったくわかりませんでした。

 

 四天王寺から西に歩いて通天閣のある新世界に向かいました。途中茶臼山と言う小山がありました。

 ここは大坂夏の陣徳川家康が本陣を構えたところです。ここから大阪城を攻めたのですから、随分と大きな戦いだったことが分かります。但し山は小さく、ここから大坂城が見えたのかどうか、(多分見えたのでしょう)。

 新世界に近づくと家並みは小さくひしめいて来ます。町はパリに真似て放射状に作られましたが、設計者の理想とは裏腹に、本家のシャンゼリゼ通りとは似ても似つかない発展をしました。立飲み屋、煮込み屋、おでん屋、スマートボール、喫茶店うどん屋、浮浪者がうろうろして朝から酒を飲んでいます。おしゃれとは無縁の街です。明治の理想はどこへ、残滓のみが残されています。

 ここらに新花月と言う演芸場があったのですが、そこはどこだったのでしょうか。日頃はたいしてお客さんが入らない劇場でしたが、雨になると仕事にあぶれた日雇いでいっぱいになる変わった演芸場でした。私が20代まではあったと記憶しています。

 この界隈に芸人が大勢集まって暮らしていた借家街があって、それを芸人の楽屋言葉で天王寺村(関西弁で、てんのじむら)と言いました。その天王寺村とはどのあたりなのか、あちこちうろうろしましたが、これは昔を知る芸人を連れて来なければわかりません。何にしてもこのせせこましい街の路地裏で、大勢の芸人が面白可笑しく暮らしていたのでしょう。

 

 ジャンジャン横町のアーケードを歩くと、その両脇は立ち飲み屋ばかり並んでいます。午前中から酒を飲んで煮込みを食べている人が結構います。この町は弱者や敗者にやさしいのです。

 「いいなぁ、私も人生を諦めて、昼から酒を飲んで煮込み屋でおだまいたらどんなに幸せだろう。諦めてしまえば楽しく生きられるんだ」。

 私も少し空腹を覚え、ふらりと店に入りたい衝動にかられましたが、「いや、待てよ、これから人にマジックを教えなければいけない。赤い顔して教えることは出来ない。それに、明日は打ち上げで酒を飲むから、今日呑んでしまったら血糖値が上がる。やはりはやめておこう」。と心に決めました。まだ理性のかけらが残っていたのです。「あぁ、もっと怠惰にデレデレ生きて見たい」。

 結局、どこの店にも入らず見物するのみです。御堂筋線の動物園駅を通り越して、まだ細いアーケードが続きます。「一体このアーケードはどこまで続くのか、お終いまで歩いてみよう」。と思う間もなく、途中に路地があり、そこにオーエス劇場という看板が見えました。路地を入ると大衆演劇の劇場でした。

 小さな劇場でした。髷を結って付け睫毛をしたお兄さんのポスターが出ています。外観を携帯カメラに収めました。何とも場末感の漂う劇場です。入場料1400円。人けもありません。私の心の中で軽んじているのがわかります。

 でも、よくよく考えて見たなら、この程度の劇場すらもマジシャンは持っていないのです。この劇場は、芝居を愛するファンが自己資金で建てたものでしょう。そこへ全国の役者がやって来てはとっかえひっかえ出演しているのです。そして見せる対象は一般客です。ちゃんと売り手、演じ手、観客が存在して成り立っているのです。

 方やマジックはどうでしょう。マジック愛好家と言うのは自分が人に見せたい人ばかりです。マジシャンを育てようなどと言う人はほとんどいないのです。そして、商店街の中に劇場を建て、入場料を取って一般客に見せようという人もいません。

 マジック愛好家の多くは大衆演劇を軽く見ることは出来ません。彼らはしっかり一般客を見据えて仕事をしています。マジシャンがコンベンションを相手にして、理解者の評価ばかりを気にしているのとはわけが違います。

 一体どちらの生き方が本来の芸能のあるべき姿なのか。私はオーエス劇場の前にしばしたたずみ、この人たちのほうがよっぽど正道な生き方をしているんだと得心し、自身のこれまでの人生を恥ずかしく思いました。

続く