手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

備前焼

備前焼

 

 以前に、私が20代の頃、九州、中国、関西地方に毎年春と秋にマジックの指導旅行に出かけていた話を書きました。昭和50年代の頃です。

 当時、マジックはブームで、どこの町にも10人20人のマジッククラブがあり、アマチュアさんが集まって自分たちで教えあってクラブを運営していました。

 彼らの情報源は雑誌や、メーカーから取り寄せる道具でした。然し、いくら本や道具が増えても、実際、どう演じたらショウとしてのマジックになるのか、そもそも手順と言う発想がないため、闇雲にマジックを買っては羅列して演じていたのです。

 そんなところに私が、手順の組み立て方や、ロープやシルクで2分3分の手順を作って見せると、とても喜ばれて、「できれば年に二三回来て教えてくれませんか」。となりました。

 そこで、九州の南端から、コースを作って中国、四国、関西と、15か所の指導を引き受け、年二回指導をして回っていました。

 でも、今回の話は、マジック指導ではありません。指導の途中、各地の陶芸の窯元の家に寄って、陶器を集めるのが私の趣味でした。鹿児島の薩摩焼、佐賀の有田焼、岡山の備前焼など、通り道の焼き物を買い求めていました。

 とりわけ、岡山の備前焼は、窯元の榊原清人先生と早くからご縁が出来て、西の指導に行くたびにお宅に泊めていただき、毎回歓待を受けるものですから、作品もたくさん買い集め、少し備前の良さを語れるようにはなりました。

 

 日本には六古窯と言う、古くからの陶芸の産地があり、1500年以上前から陶器を生産していた地域が残っています。瀬戸、常滑、越前、設楽、丹波備前と言った地域で、今も焼き物産業でにぎわっている地域です。

 中でも瀬戸は、良い土が大量に産出されたため、江戸時代から大量生産が可能で、日曜雑器がたくさん作られました。茶わんや湯飲みを瀬戸物と言うのは、瀬戸焼だからではなく、陶器の代名詞になってしまったわけです。

 備前は、古くは伊部(いんべ=備前の一地域の名称)焼といい、その昔は土が豊富だったらしく、雑器を作っては近隣の農家の日用品として販売していました。

 当時は民具ですから、すり鉢や大壺、醤油徳利などを作っていたようですが、片上や、近くの海では今も難破した船の荷物が漁の網にかかることがあり、壺などが良く上がってくるそうです。

 それらは古備前と呼ばれ、すり鉢ではあまり価値はありませんが、時折、壺や徳利などが出ると、珍品としてとんでもない高値が付くようです。

 

 備前焼を他の地域の窯と大きく引き離して希少価値に高めたのは、茶の湯でした。千利休に代表される茶の湯は、戦国時代に大発展をし、今日の茶道の形式を作り上げました。

 茶の湯そのものは鎌倉時代あたりから中国に修行に出かけた僧がもたらしましたが、喫茶の風習は室町時代に至って、サロンとして発展し、日本の文化芸術の発展に大きく寄与しました。

 もっとも室町時代茶の湯は、金持ちのサロンそのもので、高価な宝物を部屋一面に飾り、その中で喫茶をし、中国風の食事を振舞い、富を競うたぐいのものでした。

 それに対して大改革をしたのは千利休でした。利休は金持ちの贅沢ごっこに、侘び、寂(わび、さび)と言う文化を取り入れました。これは日本文化の大革命でした。

 金持ちが財産を見せびらかすことは下品だと考えたのです。金や銀、唐渡り物(からわたりもの=中国からの輸入品)を並べたなら、それが高価なものであることは誰にも分かります。

 しかしそうしてあからさまに物を見せびらかすことが本当にお客様のおもてなしになるかどうか。お客様本来の気持ちを考えたなら、それは人を迎えるマナーから外れている。茶道の道に反している。と言い出したのです。

 ここに芸術の客観性が生まれ、しかも、トータルコーディネートの重要性が語られるようになったのです。

 実にこれが16世紀のことです。中国でも、ヨーロッパでも、金持ちは、子供のおもちゃ箱をひっくり返したかのように、所狭しと宝物を並べて得意がっていた時代に、物金を自慢するのは馬鹿だ。本当の価値は物ではなくセンスだと言い出したのです。これは世界史の中でも特筆すべき革命です。

 茶道と言うものは、日本人でもなかなかわかりにくい文化ですが、作家の司馬遼太郎さんは茶道をいみじくも「金持ちの貧乏人ごっこだ」。と言っています。

 このセリフを本で読んだときに、私は脳天に衝撃を受けました。今まで茶道が何であるか皆目掴めなかったことが、一遍に氷解したからです。

 一見、あずまやと言う、粗末な(決して粗末ではなく、粗末に見える)小さな部屋を建てて。部屋の中は三畳だの四畳だのと言う極限に狭い空間を作り上げて、天井は網代などと言う、漁師の番小屋のような粗末なつくりにして、備前焼の田舎臭い寸胴の花活けを飾り、そこには花一輪を活け、茶わんも同様に百姓家から持ってきたような備前の飯盛り茶碗を使って、茶を飲む、傍から見たなら何ら派手さもなく、飾りっ気もなく、キラキラしたものは一つもない。貧しい百姓家で数人が静かに茶を飲んでいるような風景です。

 然しこの風景を作り上げようとすると、とんでもない費用がかかります。一見何の変哲もない部屋が、床柱から、掛け軸、茶わん、茶杓に至るまで、選ばれぬいた素材で作っているため法外な費用が掛かります。

 どんなに費用が掛かっても傍から見たなら田舎の風景です。決して表に贅沢さを見せないところが利休の美意識なわけです。

 

 話は長くなりましたが、利休が素焼きで、地味で、何ら人の関心を誘うような装飾もない備前焼茶の湯の本質を見出し、備前を侘び寂の極致と認めたことで、それまで農民の雑器だった備前は一躍高価な茶道具として取引をされることになります。

 ここから伊部の村では俄に陶芸が盛んになり、盛んに関西方面に茶道具としての花瓶や茶碗が送り出されるようになります。たった一人の芸術家のセンスが、村を変え、陶器を変え、日本の文化を変えたのです。この話はまた明日に続きます。

続く