手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

下津井港

下津井港(しもついみなと)

 

 縁あって私は岡山に行く機会が多いのですが、岡山に行くたびに、長らく日本奇術の研究をなさっていた、今は故人の山本慶一先生のお宅に伺って、お線香をあげるようにしていました。

 山本慶一先生は、かつては地元で小学校の校長先生をされていて、定年後は、倉敷市の図書館の館長をされ、その後は下津井港の海鮮問屋の博物館の館長になる予定でいたのですが、博物館が出来る間際に癌で亡くなられました。

 山本先生のお宅は、この博物館のすぐ近くにあって、かれこれ150年くらい経った家と聞きました。私が出かけると、いつも酒と魚を用意してくれていて、大歓待をしてくれました。

 下津井に住んでいてはマジックの話をする人も少ないらしく、私が行くと、溜まっていた話が次から次に出て来て、朝まで話をしました。

 

 山本先生は、奇術研究と言う季刊誌に手妻の文献を頻繁に載せておられて、既に昭和30年代からその名前は知られていました。当時は、平岩白風さん、藪晴夫さんなどと共に、数少ない手妻の研究家の一人でした。

 山本先生は、三代目の帰天斎正一との親交が深く、帰天斎正一亡き後、大部分の資料を買い取って所有していました。昭和40年代でもすでに古い形で手妻を演じる人は少なく、帰天斎の芸は貴重でした。

 私は手妻のご縁でたびたび下津井まで出かけ色々な資料を見せてもらっていました。ご自身でも手妻を演じる機会はあったようですが、アマチュアとして時折地元で見せる程度でした。

 山本先生の小学校に末原と言う生徒さんがいました。この人がマジックが大好きだと言うので、帰天斎に弟子入りさせて、のちに六代目帰天斎を名乗りました。

 

 下津井はまったく世間から忘れ去られたような町です。突き出た断崖に沿って、延々と続く細く曲がりくねった一本の街道が下津井のメインストリートです。道幅は6mくらいでしょうか。その昔はここにバスが走っていたと言うのですから、どうやって運転していたのでしょうか。

 町は古くて、銀行も郵便局も蔵造りで、そのまま明治期の映画のセットに使えます。通りの真ん中に立つと明治と言う時代がどんな時代だったのか想像が出来ます。

 その昔、江戸時代は、大坂から千石船が瀬戸内を通って、日本海を通って、北海道まで行き、昆布や鰊を仕入れて大坂で売りさばき、大きな商売をしていました。

 その頃、風待ち、雨除けに大小の船が下津井の港に停泊し、大賑わいをしたそうです。当時の船は暴風雨などを避けるためには、平地の港よりも、岩陰の浦にある港の方が好都合で、下津井は格好の港だったわけです。

 しかも下津井は向かいが四国の多度津で、金毘羅参りの船が日待ちをするために下津井に立ち寄り、遊び客相手に座敷や遊郭が立ち並んで今の何十倍もの人で賑わっていました。

 然し、明治以降、千石船は廃れ、今は漁をするための船が停泊しているのみです。下津井の港からはフェリーが出ていて、かつては私も四国に車で渡る際にこの港を利用しました。

 それも、今では、本四架橋が出来て、本州と四国がわずか20分でつながってしまいました。下津井はその本四架橋の橋げたになってしまい。空を見上げれば大きな橋が架かっていますが、もう下津井のフェリーを利用する人もなくなり、尋ねて来る人の数も大きく減りました。

 

 この港は天然の良港で、タコや、カワハギ、ヒラメ、オコゼなどが良く採れます。カワハギの刺身に肝を載せて食べるやり方はここで覚えました。余り味のないさっぱりとしたカワハギの刺身に、肝を乗せて食べると、肝の脂身が刺身のうまみを引き出し、身の歯ごたえの良さと相まって、がぜん味が変わります。

 タコも生のまま刺身にして出て来ます。きゅっとしまった身が皿の上でまだ動いています。噛むと潮の香とともに、甘みが感じられます。タコに甘みを感じたことは初めてでした。夕暮れに、瀬戸内の海を眺めながら、たことカワハギの刺身で一杯やりながらマジックの話をするのはなんと贅沢なことか。

 

 私は、下津井につくと時間を取って、町のはずれから外れまでを歩きます。今はひっそりとしていて、殆ど人が歩いていません。この道の細さと言い、古びた街並みと言い。観光地にもならずにただ残っている姿がたまらなく好きです。

 何とか町の発展を考えて、海鮮問屋の博物館がオープンしました。訪ねて行くと、来館者の数は少なく、博物館の存続が心配になります。

 但し、昔の海鮮問屋を手直しして、きれいにしたことは日本建築の良さを十分残しています。下津井の町の南側は、かつてはズラリ海鮮問屋が並んでいたそうです。町の南側は、細長い民家が並んでいて、民家の敷地は何十ⅿも続き、そのまま海まで続いていたのです。海に船をつけて、そこから荷物を倉に入れていました。

 今は南側を埋め立てて、バイパスを作り、町の真ん中に車が通らずに車が海沿いに抜けるようになっています。住民にすればその方が便利なのでしょう、その分、海はバイパスの奥になってしまいました。

 私のような旅行者からすれば、家の南側が海で、そこから小舟が出せたならどんなに面白いかと思います。南の部屋を寝室にして、朝、障子を開けたら、瀬戸内が見え、そこから日の出が拝めたなら、まるで正月に飾る掛け軸の世界です。

 「あぁ、こんな家に住めたらなぁ」。と思って、海鮮問屋の博物館を見学しました。いや、その夢はまったく不可能ではなく、博物館の並びには昔の海鮮問屋の家がいくつも並んでいます。しかも、誰も住んでいない家もあります。

 上手く交渉したなら、格安で買い取ることもできるでしょう。しかし仮に買い取ったとしても、快適に暮らすためには大改築が必要です。その費用が莫大でしょう、何しろ、漆喰の職人や、土壁の職人が日本中で激減しています。美しく復元するには相当な費用がかかります。

 さて、その家を買い取って、岡山駅と下津井を移動するために中古の自家用車を買い、小型ボートを買い、時に釣りをして楽しもうなどとすると、もう単純な遊びでは済まされないような費用が掛かります。そこまでして、年間何回下津井に行くかと考えたなら、それは道楽以外の何もでもないでしょう。

 つまり、下津に暮らすと言うのは私の夢なのです。でも、生活の心配がなくて、手妻の仕事を減らして、下津井に居を移し、時折出演や指導で岡山あたりまで出る程度の活動をして、余生を暮らして行けたなら、何と幸せな人生かと思います。

続く