手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

SAMジャパン 5

SAMジャパン 5

 

 SAMジャパンは日本国内で定着しました。当初、私は5年間は何があってもSAMジャパンをケアしようと考えていました。然し、5年経っても10年経っても私はSAMジャパンから離れることができませんでした。

 特にアメリカ本部は、私がSAMの役員から抜けることを恐れて、エグゼクティブプロデューサーなどと言うポジションを新設して必死に引き留めようとしました。然し、私自身はこの激務に会社や家族を手伝わせることに限界を感じていました。

 それは日本人の意識に原因のあることだと思いますが、会員はお客様であろうとするのです。会費を払って、参加費を払って世界大会に来ているのだから、自分は客だと信じています。

 SAMが自分たちの組織で、組織はボランティアで運営されていると言う認識がないのです。彼らが何か一つでも協力しようという善意の意識が芽生えることがないのです。

 会員から、例えば、当日受付を手伝おう、コンテストの裏方をしよう、写真を撮ろう、会計をしよう、などと自発的な申し出があれば、SAMは私の手を離れて組織は動いて行くでしょう。無論わずかな協力者はいました。然し、奉仕の意識が広がってSAMが自主運営されることはなかったのです。

 

 前に地方の奇術クラブの体質を批判しましたが、なぜ地方の奇術クラブの会長がしばしば会を独占してしまうのか、と考えるなら、指導し、会をまとめ、発表会を企画し、と、何でもかでも会長一人で動いてしまうからです。

 ではなぜ会長が一人で動くのかと言うなら、会に集まる人たちが会長に任せっきりで、常に受け身でクラブに来るからです。「自分の組織」と言う認識がないのです。

 会員は、「今日は何を教えてくれるのか」。と言って、例会にやって来ます。発表会が近づくと「わしは何をしたらええんかいのう」。とまったく受け身です。

 そのうち会長は奉仕をすることのバカらしさに気付き、道具の販売で収入を上げようと考えます。収入が絡めば会は会長個人のものとなり、排他的な組織になります。

 

 私は、SAMを利益団体にする気持ちはありませんでした。出来ることなら意欲のある人に組織を任せ、自主運営して行ってもらえればいいと考えていました。

 しかし世の中はうまく行かないことが次々に起こります。バブルが弾けて日本全体がとんでもない不景気がやってきました。年会費を支払う会員も減り、大会に参加するアマチュアも減少して行きます。平成8年頃には、会員数は500人を切ってしまいます。

 私のチームの仕事も激減して行きました。当初、SAMに赤字が出ても、年間300万円までは私の経費で補填していました。ところが仕事が激減して、私の使える金も減少して行きました。それも本業がうまく行かない中での補填ですから、何のためにSAMを運営しているのかわからなくなりました。

 景気のいいときは、アシスタントや弟子が何人もいましたから、その人たちに発送や、大会運営を手伝ってもらっていましたが、人が減ってからは手伝いもなく、私と女房で作業する以外なくなりました。明らかに自分の道楽で、会社にも、女房にも迷惑をかけ続けたことになります。

 それでもみんなが感謝をしてくれて、SAMの必要性を認めてくれるならやりがいもあるのですが。現実はそうはならなかったのです。

 

 当初SAMは各支部のプロマジシャンを会長に立てて、支部を立ち上げました。プロとアマチュアが一体になって会を運営すると言うのは面白いだろうと考えてそうしました、実際、マーカテンドーやナポレオンズなど、人気のマジシャンが会長をすることで会員も集まったのです。

 そして、プロが組織の中で発言権を持てばマジシャンも奇術界でポジションを得て、いい顔になると考えたのです。然し、私の目論見はあっさりと崩れます。

 大会開催中に総会を開きますが、彼らは出演のない世界大会には参加しないのです。顔を出すプロマジシャンは販売をするプロマジシャンなのです。然し、販売をするマジシャンは、総会には顔を出しません。同じ建物にいながら総会中、彼らは売り場に立っているのです。

 支部会長が総会に顔を出さずに、売り場で物を売っていては、総会に人が集まるわけはないのです。バブルがはじけて舞台回数が減って、プロとして生きて行くことが大変なことは同情しますが、総会ぐらい、アルバイトを立ててでも集まってくれればよいものを、彼らに組織の意識は希薄でした。

 つまり彼らは、販売目的でSAMに参加するわけで、私がいくら、コンテストの改革を唱えても、プロの育成を語っても、結果は書生論です。

 しかも、10年目くらいから、プロの中で自分で大会を開催する人が出て来ました。SAMよりも一層小さな大会を開催し始めたのです。結果、参加者を分散させることになり、SAMそのものが弱体化して行きます。

 300人集めてもぎりぎりの黒字にしかならない世界大会を、脇で100人150人の大会を作って地方で運営しても、マジシャンの家族に赤字を背負わせる結果にしかならないのに、彼らはミニ大会を始めたのです。そんな大会を開くくらいなら、SAMに参加者を連れて来てくれればより強固な大会運営が出来るのに、

 こうなると私が毎年世界大会を運営して、毎年赤字補填をして、女房が会計をして、名簿の整理をして、アメリカに送金をして、つましく運営をしていることが無意味になります。

 明らかに私は人生の失敗を知りました。私自身がもっともっと自分のことのためにマジック活動をして行かなければならないときに、私は寄り道を繰り返していたのです。

 

 そんな中、平成10年に芸術祭大賞の受賞がありました。世間は一気に手妻(和妻)に注目するようになりました。ここで手妻を大きくまとめて、成果を上げれば手妻を安定して残せる。これが私の人生の最後のチャンスでしょう。

 然し、そうなるとSAMに割く時間が負担でした。SAMから解放されれば私はもっともっと大きな成果が残せるのに、と常に悩みました。結局SAMから離れられずに、私が解放されたのはそれから5年先のことでした。これが良かったか悪かったか。知らず知らずに私は50を過ぎていました。

 

 最終的には、SAMは田代茂さんに引き受けてもらうことになりました。大会も開催せず、機関誌も発行せず、ただSAM本部との連携を保ちつつ、本部の活動に協力して行くと言う組織になったのです。今も50人くらいの会員がいます。私も永世会員として残っています。

 かくして私のマジック界の改革は頓挫しました。その後始末を引き受けてくれた田代さんには心から感謝しています。田代さんをとかくに言う人がいますが、マジックの世界で将来を見据えて、きっちりなすべきことを考えて行動している人は田代さんを置いて他にはありません。しかも、私にとっては恩人なのです。

SAMジャパン終わり