手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

総裁候補、ショスタコービィチなど

総裁候補、ショスタコービィチなど

 

 ガースーさんが総裁不出馬になって、にわかに総裁候補が続々と名乗りを上げて来ました。どなたになるのかはわかりませんが、自民党の総裁は自動的に次期首相になるわけですから、世間の期待度は大きなものになります。

 今回私は、高市早苗さんに注目しています。マスコミは高市さんを蛇蝎のごとく嫌っているようですが、案外高市さんの考えが日本の将来の基盤になって可能性を感じます。

 未だマスコミはリベラルな政治家を支持したがる傾向にありますが、実際の国民はどうでしょうか。今、野党が束になっても自民党に勝てないのは、既に社会主義が希望を失っているからではないのですか。

 私が高校生くらいの頃は、革マル派だの全学連だのと、社会主義に憧れている人が大勢いましたが、今、日本やヨーロッパの様に高度に発展した国々に住む人たちで、ロシアや中国の体制に憧れを感じている人は稀有でしょう。

 最近は、新聞の政治欄を見ても、マスコミがいたずらに自民党を批判しても、国民は醒めて眺めています。むしろ煽り立てた政治批判は冷笑されています。オリンピック批判しかり、靖国参拝しかり、靖国は「別に行きたい人が行ったらいいんじゃないの」と、容認している人の方が多いのではないですか。

 日本は社会全体が保守化しています。と言うよりも国民が冷静になっています。そんな中で、高市さんの言っていることは、10年前ならこっぴどく批判されたでしょうが、どうやら風向きは変わりつつあるように思います。

 すなわち、憲法9条改正、再軍備が議論される状況になりそうです。一昔前なら軍国主義復活だの、右翼だのとすぐにレッテルを張られた議論でも、今では肯定はしないまでも、議論のために議題に載せることに反対はしなくなったように思います。

 

 軍隊を持つ国家、例えば、イギリスやフランス人が自国を軍国主義だとか右翼国家とは思っていないでしょう。彼らは別段どこかの国を攻めるために軍隊を持っているのではなく、あくまで国防のために保持しているのです。

 それは例えば、ベルギーのような小国ですら、軍隊を持っています。第一次大戦も、第二次大戦も、ともにドイツ軍に攻め込まれています。その都度ベルギーはドイツ軍と戦い、戦うたびに一週間で降伏しています。あまりに呆気ない戦い方ですが、それでも無条件降伏はしません。必ず戦います。

 ベルギーは、ドイツと戦うたびに、町一つが一人残らず虐殺されるような悲惨な体験をしています。イープルなどと言う町は、町中墓場だらけです。大戦の度に大量虐殺されているのです。ベルギーのような小国はドイツと戦えば必ず負けることは分かっています。それでも戦争を仕掛けられた時には戦います。

 ベルギー人が軍隊を持つことは軍国主義でもなければ、右翼でもなく、民主主義国家として自国の自由と尊厳を守るために戦う当然の行為なのです。

 何でも極端な話をして、軍備の必要性すらも語ろうとしないのは間違っています。それが高市さんが出てきたことでようやく日本の国防が議論されようとしています。私は日本人が成熟してきたことを喜んでいます。今度の総裁選は面白いと思います。

 

 ショスタコービィチ

 近代ロシアの偉大な作曲家であり、ストラビンスキー、プロコフィエフ、と並んで三大作曲家に数えられながら、ショスタコービィチの音楽は演奏される機会がありません。

 かつての前衛作曲家だったプロコフィエフですら最近はコマーシャルに使われているのに、ショスターコビィチは使われません。

 理由はなぜか、暗いのです。その暗さも並大抵の暗さではなく、重く、深く、救いが見えません。同じ陰鬱な曲を作るシベリウスですら、曲の中にロマン的な甘美なメロディーが出て来て救われますが。ショスタコービィチは愛想も子もなく、ひたすら社会主義体制を嫌い、党の圧力に怯え、媚び、へつらい、へつらう自分を嫌悪し、一層憂鬱になって落ち込んみます。

 この人は理解者を拒否します。当人は救いを求めようとしていながら、安易に近寄る人を嫌います。救いのないお宅です。でも作品は文句なく立派です。

 15曲の交響曲弦楽四重奏、オペラを書き、立派な仕事を残していながら、自身の作を嫌い、決して本心を見せず、曲の片隅に小さなメッセージを残し、苦悩を訴えます。心が屈折しています。

 ショスタコービィチの作品の中で、5番と7番の交響曲は初演以来好評で、特に5番の演奏頻度は高く、よく知られていますが、当人は、5番も7番も共産党の批判をかわすために書いた作品で、あまり好きではなかったようです。

 代表作が当人の本心を語った作品ではない、と言われたなら、彼の何を理解したらいいのか観客は苦しみます。彼の音楽の本質を理解していたのは、サンクトペテルブルグフィルハーモニーの常任指揮者だったムラヴィンスキーでした。

 私はこの人の指揮が好きで高校生くらいから随分レコードを集めました。その中でもショスタコービィチの5番7番の交響曲は面白くて何百回も聞きました。

 昨日(6日)何十年ぶりかで7番を聞きました。何しろ一曲80分に及ぶ大曲です。曲は「レニングラード」と言うタイトルがついています。ドイツ軍がレニングラード(今のサンクトペテルブルグ)を包囲した時に、ショスタコービィチはレニングラードにいて、空襲と飢餓の中でこの曲を書きました。

 曲は第一楽章が圧巻です。30分近い第一楽章は、初め、親しみやすいメロディーで始まります。そして、農村の祭りのようなのどかな行進曲が遠くの方から聞こえてきます。このメロディーが延々繰り返されますが、それが実はドイツ軍の戦車軍団だと気付きます。曲は凶暴化して盛り上がり、飛行機が飛び交い、戦車のキャタピラによって人がひき殺され、阿鼻叫喚の世界になります。そして絶望の中ショスタコービィチは叫びます。「なぜ戦争をするんだ、なぜ人を殺すんだ」と。

 彼は戦争の愚かさを音楽にしたのです。ピカソゲルニカと並んで、彼の交響曲は20世紀最高の芸術です。

 彼が大曲を作って初演されたことは、すぐに連合国に情報が伝わり、総譜(スコア)はマイクロフイルムに収められ、飛行機でニューヨークに送られ、さっそく1942年、トスカニーニの指揮で、ニューヨークフィルの演奏でアメリカ初演が行われます。曲は熱狂で迎えられ、莫大な義援金が集まり、ソ連に送られました。アメリカ政府は直ちにソ連に武器輸出をして、独ソ戦に協力します。一曲の音楽が国を動かしたのです。

 然し、今、戦争から80年経って聞くと、不自然さばかりが目立ち、曲は陳腐です。通俗的でわかりやすくはありますが、既に目的を終えたかに感じます。50年前に聴いたときにはものすごく感動したのに。

 当時、LPレコード二枚組で4000円くらいした高価なものでした。私の一回の出演料が3000円くらいの頃、宝物のように扱ってきたレコードでしたが、今聴くと、あの時の感動はもうありません。ただ少年の頃の思い出だけが通り過ぎて行きます。

続く