手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

祝い事になぜけち付ける

祝い事になぜケチ付ける

 

 オリンピックが終わりました。面白い楽しい祭典でした。

先ず、日ごろこんなに毎日、何本もの競技を見ることはありません。しかも、その一つ一つが世界一を競うとあっては、たとえどこの国の選手が出ていても見ていて自然に力が入ります。

 国によっては参加者が数名と言う国がたくさんあります。国旗を掲げて入場して来ても、一体どこにある国なのか、およそ国名も国旗も知られていない国がたくさんあります。

 そうした国からやってきた選手は、それこそ日本に来ただけでも、まるで人生の奇蹟をすべて使いきったくらいな幸運を手に入れてやって来ているのでしょう。

 ましてや、東京で優勝するとなったら、サマージャンボ宝くじの一等を手に入れるくらいの幸運なのかもしれません。いや、スポーツは幸運だけでは優勝しません。実力と努力がなければ優勝はあり得ないでしょう。

 マラソンでは何百人もの人が走っていましたが、あの中で一人として負けてもいいと思って走っている人はいないはずです。すべての選手は自国の期待を一身に受けて過酷なマラソンに参加していたのでしょう。

 それなのに、札幌の天気は過酷です。札幌なら東京より涼しいだろうと思って、わざわざ開催場所を変更したにも関わらず、今年の札幌は東京以上の猛暑です。気温と湿度の高さで乾燥した土地で育った多くの選手は、たちまち体調不良を起こし棄権して行きます。

 国の期待を一身に受けてやってきた選手が、力及ばず、徒歩でとぼとぼ歩き続ける姿を見ていると気の毒で涙が出ます。

 ここに来るまでどれほどの犠牲を顧みず、練習に励んできたことか。然し、実力があるから、努力をしたからと言って栄冠を勝ち取れるものではありません。優勝者は一人、メダルは三っつしかないのです。

 

 オリンピックの前も開催中も、「オリンピックなんて無駄だ」。「オリンピックをやめろ」。と言う人がたくさんいました。そもそもオリンピックを否定する人にとってはすべてが無駄に見えるのです。

 然し、日本はオリンピックに意義を見出したからこそ開催国として立候補したのです。巨額な費用のかかるオリンピックを開催出来る国は、恐らく世界中で20か国あるかないかでしょう。よほど国に財力があって、国民に理解があって、優れたアスリートがいる国でなければ開催は不可能なのです。

 そうした中で、過去に二度(中止になった昭和15年の立候補も入れたなら三度)までも開催を申し出た国は数か国です。先ず日本人は、日本が開催能力のある国だと言うことを喜ぶべきです。

 オリンピックは無駄だと言う人は、自分にとって無駄なのであって、アスリートの立場を考えて発言していないのです。自分に興味のないことはすべてが無駄に見えます。だからやめろ、税金の無駄だと言うのは狭量な考え方です。

 私は芸能に生きていますが、芸能こそ、興味のない人にしてみれば、芸人の存在自体が無駄に見えます。興味のない人にすれば「そんなことをして何になる」。と言います。

 そうなのです、興味のない人にはやっていることそのものが無意味なのです。自分の息子が、ギターやボーカルをしていると、父親は「そんなことをしていて食えるのか」。と聞いてきます。

 興味のない人と言うのは、「芸能で食える」と言うことがどれほどハードルの高いことかを知りません。食べて行けると言うことはよほどの魅力と実力を手に入れない限り無理なのです。そんなことはやっている当人は分かっています。

 然し、今の自分に力がないから、芸能で食えないからと言ってやめてしまっては何もならないのです。否定されても、生活が苦しくても、まず自分が自分のスポンサーになって、芸能を愛して惚れぬかない限り、自身の芸能は育たないのです。

 スポーツも同じです。ある意味、スポーツは芸能以上に生活して行くことは難しい世界です。一般人が入場料を支払って、大勢押し掛けてくるようなスポーツは一握りですし、その中で生活して行ける人はまた一握りです。

 相撲の番付をごらんなさい。大関横綱は大きく太く書いてありますが、その下の細い文字で書かれている力士は、幕内力士の数百倍います。そうした力士で十両以下はみんな無給です。ほとんどは親方に食べさせてもらっています。我々が見ているのは大きなピラミッドの頂点です。

 「食えるポジションに立つ」と言うことがどれほど大変なことかはスポーツをする人ならみんな承知しています。

 オリンピックを開催すると言うことは、まず我々が、彼らを否定することではなく、日本のアスリートを認めることが前提なのです。ここがわからなければその先のすべての議論は無意味です。テレビのワイドショウなどで連日コメンテーターと言う人たちが語る意見は、どれも議論以前の話です。

 「オリンピックの金があったら福祉に回せ」。「コロナの病棟を一つでも多く建てたほうが国民のためだ」。一見聞けばもっともな意見ですが、すべてはお為ごかしです。世の中のためを思って言っているように聞こえますが、すべては町内会の祭りの寄付金を渋る金持ち親父のセリフと同じです。

 福祉には毎年気の遠くなるほどに税金を使っています。コロナも30兆円と言う臨時費用を用意しながら、ほとんど使われることなく予算が余り返っています。その現実はどう見ますか。

 まず日本のスポーツ界やアスリートを認めるために開催するオリンピックが、無駄と言う人には話はできないのです。多くのアスリートはオリンピックでもない限り我々が見る機会はありません。彼ら彼女らは発表の場を求めているのです。

 くだらないことを言うのはやめて、まずアスリートの努力を認めるべきです。実際日本の選手は素晴らしい成績を上げたではありませんか。もし開催中止であったなら、あの選手の努力は日本人に理解されずに終わったのです。我々に連日感動を与えてくれたアスリートを無条件に讃えるべきです。

 

 自分の家の近所に、人知れず地道な努力を続けている人がいることをもっともっと評価すべきです。オリンピックはそれを知る良い機会なのです。

 今またオリンピックを終えて、「かかった経費がのちの時代までも国民の負担になる」。などともっともらしいことを言う人がいます。祭りに金がかかることは当然なのです。然しそれは金を捨てたことにはなりません。

 日本人は、侍ジャパンがいます。西矢椛さんが育っています。阿部一二三兄妹が育ったではありませんか。他にももっともっと優れたアスリートがいます。それは何にも代えがたい日本の宝物なのです。

 オリンピックを「三兆円の無駄遣い」。と言う人があります。いえいえわずかな金です。国家予算が八十兆円ある中の三兆円です。一般家庭で言うなら、夫婦の稼ぎが年八百万円ある家庭の、子供がオリンピックに出場すると言ったら三十万円程度の餞別を出すのは無駄遣いでしょうか。50数年に一度の催しにそれくらい出せませんか。

 それをケチったら人なんて育たないのです。祝い事にケチをつける人を相手にしてはいけません。下衆を相手にすれば下衆に落ちます。

続く