手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人の好み

人の好み

 

 人の好みは千差万別で、人のすることを見ていると、好きな人にしてみれば何千回やってもやめられないものでも、興味のない人にとっては、なぜああしたものが好きなんだろう。と、首をかしげてしまうことは多々あります。

 オリンピックでは、日ごろ目にしない種目をたくさん見ます。先日も、フェンシングの4人組の日本人が金メダルを取りました。フェンシングと言うスポーツがあることは知っていますが、まずオリンピック以外で見ることはありません。

 フェンシングは技が速すぎて我々が見ていて、何が起こったかがわかりません。勝ち負けがさっぱりわかりません。それがいつのころからか、技が成功したほうの選手の頭にランプがつくようになったために勝敗がわかるようになっています。

 これは便利な発明です。わずかな差でも電気が正確に知らせてくれます。この仕掛けがなかったころは、どうやって勝敗を決めていたのでしょう。ジャッジも互いの剣先を両方同時に見分けることは不可能でしょう。誤審や八百長がやりたい放題だったのではないでしょうか。

 恐らく、この仕掛けのお陰でフェンシングの人口が増えたのではないかと思います。時代が進歩したことでスポーツ人口が増えた例かも知れません。

 

 三段跳び走高跳などは、オリンピック以外で見ることはありません。私は不思議に思うのですが、走高跳などは、どうして誰が、どういう気持ちでやりたいと思うようになるのでしょうか。勿論、そこには技術もあるでしょうし、才能の向き不向きもあるでしょう。

 そうであるなら、自分が走り高跳びの才能がある。自分は向いている。といつ気付いたのでしょうか。そして、この地味なスポーツをどうやって続けて来たのでしょうか。

 およそショウ的な要素のない競技ですから、人が見て楽しい面白いと言うものでもないように思います(見方によっては面白いのかも知れません)。

 どこかで認めてもらうと言っても、国体ですとか、オリンピックのような場以外で発表する機会はないでしょう。とても限られた場でのチャンスしかないように思います。それに対して、毎日毎日同じことを繰り返して練習すると言うのは随分根気のいる活動だと思います。懸賞金の出るスポーツとも思えません。そのストイックさにおいて筆頭格ではないかと思います。これで名を成す人と言うのは頭が下がります。

 

 それを言ったら、100m走200m走なども同様に地味な競技です。ただ走ると言うことを毎日毎日ひたすら繰り返すと言うのはとんでもなくストイックな行為だと思います。

 我々はオリンピックで、世界の強豪が、ほんの一瞬、走る姿を見るだけですが、9秒幾つかのドラマを作り出すために、そこに至るまでの、気が遠くなるような練習量を思うと、現代のように、誘惑の多い社会で、たった一点を見つめて、来る日も走り続けると言うのは大変な競技だと思います。

 

 私はこうした競技をする人は、なにか、やっていて独特な面白さがあるだろうかと推測します。およそ外から見ていては分からないような、走っている人だけにしかわからない楽しみ。ある種、同じことを繰り返しているうちに、麻薬的な恍惚感のようなものが生まれるのではないだろうか。などと邪推してしまいます。

 記録の限界に近づいてくると、全く別の世界が見えて来て、誰も体験したことのないような世界に引っ張り込まれて行く。と言うのであれば、単純なスポーツも、やる人にとっては極上の世界を体験できるわけですから、それはきっと面白いと思います。

 

 私自身はこの20年、ショウをしていて、しばしば別の世界に入り込み、別の人格となって演技をすることがあります。催眠とも違います。自分自身はしっかり記憶がありますし、お客様のこともよく見えています。

 憑依(ひょうい)すると言う言葉がありますが、そこまで自分自身が入り込んで自分でないものになっているわけでもありません。ただ、現実に演技をしながら、別の世界に入り込むのです。それは江戸時代かもしれません。明治時代かもしれません。時空を超えて、現在と過去の区別がつかなくなります。

 演じているときは、自分が何者であるかも曖昧になります。そして、あえて表情を作ったり、演技をしたりしなくなるのです。演技をしないと言っても演技はしていますが、それは意識の中で演技をしていると言うのではなく、まったく無意思に演技がなされて行くのです。

 ただ、ふわりふわりと演技をします。気が付くと演技は一通りが終わっていて、そのあとは頭を下げて終わります。

 演技を隅々まで把握していながらも、種仕掛けのことなど全く考えず、自然に演技が出て来て、欲もなく、衒(てら)いもなく、ただ無心に演じているわけで、全く自然にこうした世界に入り込みます。これはこれで演じていて気持ちのいいものです。

 話は戻りますが、100m走などは私の手妻の演技と同じように、何千回と練習を繰り返すうちに、そんな別の世界が見えるのだろうか。と、ふと思った次第です。それがあるならそれはそれで楽しい世界だと思います。

 何にしてもオリンピックの多くの種目は、選手が実にストイックな生活を繰り返した末に到達した世界です。どれもこれも現代においては到達しにくい世界です。それをほんのひと時でも見せていただけることは幸いです。

続く