手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

猿ヶ京合宿

猿ヶ京合宿

 

 今日(22日)は猿ヶ京合宿です。本当は4月に開催する予定でしたが、コロナにより5月に延期になり、さらに6月に延期になり、そして再々々、今日7月22日、23日に至りました。

 何と今年初めての猿ヶ京合宿です。稽古場は、年間3回ほど使用していますが、今年はもうあと一回、10月くらいに開催して、それ以降に行くことはないでしょう。

 猿ヶ京は、群馬の北西部にあり、昔の三国街道に面していて、赤谷湖畔にあります。温泉が湧き、本来なら風光明媚で、観光客が大勢い押し寄せて賑やかなはずなのですが、

 今では忘れ去られたような町になってしまい、その上、コロナの被害をもろにうけて、今や限界集落に近い存在で、町としての体裁も成り立ちにくくなっています。

 なんせ、8年前に小学校が廃校となってしまい、せっかく町営の美しい校舎がありながら、全く活用されず、残された子供たちは、スクールバスに乗って、街道を南に下った町の小学校まで通っています。

 元々猿ヶ京は、赤谷湖の中にあった宿場町で、三国街道も赤谷湖の中を通っていたのですが、利根川をせき止めてダムを作ることになり、町はそっくりダムに埋まりました。

 その時住民は国に土地を買い上げてもらい、一躍資産家になりました。住人は、こぞって山沿いに温泉ホテルを建てました。折からの観光ブームで猿ヶ京温泉は大繁盛しました。

 何しろ三国街道は、17号線と言う新潟に抜ける街道沿いにあり、新潟県に入れば、そこは苗場です。当時苗場は西武グループが開発して、スキー場とリゾートマンションをこしらえていて、冬場は大繁盛していました。

 冬になると多くの人はマイカーで三国峠を越えてスキーに出かけ、帰りがけに猿ヶ京に泊まって温泉を楽しむのが流行って、苗場も猿ヶ京も冬場は観光客で溢れていたのです。

 ところが昭和50年を過ぎると、関越自動車道が開通し、旧道の17号線は使われなくなります。ほとんどの人は、関越高速道を使って直接苗場に行き、帰りは直接東京に帰ってしまうのです。これにより猿ヶ京はみるみる寂れて行きました。

 

 町もこのまま衰退して行くのを見ているわけにはいきませんから、町おこしを始めます。折から、平成元年、竹下首相が「ふるさと創生予算」というプランを立てて、日本中の町村、都市に一律一億円をプレゼントしました。使い道は自由です。町のためになることならどんな使い方でも構わない。と言う予算を全国にばらまきます。まさにバブルの花の時期です。

 

 ここに私がお世話になった宮澤伊勢男さんが登場します。宮沢さんは、当時読売広告社にいらして、最終は専務にまでなった人です。広告代理店の名プロデューサーでした。この人は日本でバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を定着させた人です。

 それまでクリスマスしか稼ぎ時がなかったお菓子業界が、何とかもう一つ、お菓子の売れる企画はないものかと、読売広告に依頼をして、バレンタインデーをでっちあげて、その日に女性がチョコレートを男性に送る習慣を根付かせたのです。

 昔からバレンタインデーはあっても、チョコレートを贈る習慣などありません。宮沢さんが考えたのです。この企画は当たり、企画を依頼した神戸のお菓子屋さんだけでなく、日本全国のお菓子屋さんが今も潤う結果となりました。

 当然宮澤さんの実力も世間に知れ渡ります。

 そこで、水上町(みなかみまち=町村合併で、猿ヶ京は水上町に属します)は、読売広告の宮澤さんにふるさと創生の使い道を依頼します。

 宮澤さんの企画は壮大なものでした。先ず町の中心に、「まんてん星の湯」と言う町営温泉を作り、17号線を利用する車を町に引き留めるようにします。

 次に、そこから旧三国街道を整備して、歩道を作ります。歩道の両側にはペンションを建てて、温泉を引き、若い人が集まる街づくりをします。道には小川が流れ、水車が廻っています。

 さらに、その先の利根川上流を散歩道にして、吊り橋を作り、キャンプ場を作り、野球、テニスのできるグラウンドを作り、高校、大学のスポーツクラブを呼び込み、合宿施設を作りました。

 これだけのことをすれば、ふるさと創生の一億円では到底足りません。宮沢さんは、一体水上町と幾らの契約をしたのかは知りませんが、相当に大きな予算をかけて、猿ヶ京は大改造しました。

 実際、町営温泉は今も機能していますし、遊歩道は今も生きています。水車小屋も稼働しています。スポーツ施設も残っていて、クラブの合宿も行われています。

 

 然し、バブル以降、人が来なくなってしまいました。これだけの設備を備えていながら、なぜ人が来ないのか。分かりません。バブルの勢いと言うのは、それほど、人の努力や、工夫を超えた大きな波だったのでしょう。

 良いときは波に乗って多くの人が恵まれた思いをしましたが、ひとたび波が去ると、何もかも呑み込んでしまい。あとは廃墟が残ったのです。

 

 宮澤さんはその後も猿ヶ京を心配し、何かといろいろな人を町に結び付けて、町の活性化を図ります。私もその一人だったのです。宮沢さんは定年退職後に、古典芸能を支援する、「江戸に生きる」と言う支援団体を組織します。そして私を積極的に支援してくれるようになります。

 さらに、私が「古民家で生活してみたい」。と言うと、猿ヶ京の古民家を紹介してくれました。話は長くなりましたが、そこから私と猿ヶ京の縁がつながって行きます。もう宮澤さんは3年前に亡くなりました。然し、私と猿ヶ京とのご縁は続いています。

 江戸時代の古民家から、遊歩道を歩いて、利根川上流を散歩する道は、一時間の散歩コースで、美しい風景で、私の最も好きな道です。

 然し、誰も通りません。まったく忘れ去られたような道で、いつ行っても人がいなくて、すべてを独占出来ます。自分の庭のようなところです。こんな広い敷地を独占できるなんて、まるでイギリスの貴族のような生活です。

 今日も早速出かけて行きます。利根川を散歩して、晩には温泉に入り、その後、マジック愛好家たちとじっくり酒を飲んで夜まで話をします。考えて見れば、私は子供のころからこんな生活がしてみたかったのです。それが実現できることは幸せです。宮澤さんに感謝。町に感謝。これも人のご縁あればこそです。

続く

 

 すみません、明日は都合でブログを休みます。