手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新太郎のこと

新太郎のこと

 

 新太郎と言っても私ではありません。私の祖父は新太郎と言いました。芸人ではありません。銅古屋と言って、銅板を使って台所の流しを作ったり、箱火鉢の内側を作る職人でした。それがやがてブリキ板を使って雨樋を作ったり、店の看板を作ったり、お寺の屋根に銅板を張ったりする仕事を始めました。

 これは随分いい仕事になったようで、狭い家の中に常に2,3人若い衆を雇って、作業していました。

 普通なら、そこそこいい金を残して家族に楽をさせてやれたはずですが、酒と博打が好きで、人並み優れた稼ぎをしていながら、家は常に金がなかったようです。

 

 その新太郎が、太平洋戦争がはじまると、物資が不足し、仕事も不安定になってきます。そこで、一人満州に出かけたそうです。どこに行ったかはあまり詳しいことは分かりませんが、大連や、朝鮮の京城(けいじょう=今のソウル)にいたようです。当時日本人が多く住んでいて、朝鮮も大連も、戦争被害はありませんので、町は安定していて仕事は多く、天国のような暮らしだったそうです。

 然し朝鮮人も中国人も、町はどこも不衛生で、その生活態度は目を覆うような暮らし方をしていたそうです。

 朝鮮は日本の領土だったために、暮らしぶりは比較的まともだったようですが、それでも、道端で男も女も、道の脇の溝にしゃがんで排便していたそうです。さすがに京城の大通りでは排便はなかったようですが、大連の汚さは驚くばかりだったそうです。

 メインストリートでも何でも、道端で平気で排便をする人がたくさんいたそうです。便は誰もかたずける人はありませんから、あちこちに人糞がうず高く積もっています。

 電信柱は、1mくらいのところがどれもてかてか光っています。なぜ光っているのかと思っていると、道を歩く中国人が手鼻をかみ、手に付いた鼻水を電信柱にこねたくっていたのです。それが一人ではないため、どの電信柱も光っていたのです。

 ほとんどの中国人は風呂に入らず、毎日同じ服を着ています。人を雇って荷物を運ぼうとしても、その日は来ても翌日は来なかったり、来て働いているかと思うと、仕事の道具を盗んで逃げたり。盗んだ道具は町の古道具市場で既に売られていたり。全く信用できなかったのです。

 中国人の金持ちの家を覗くと、中では、朝から阿片を呑んでいて、長い煙管を一日口に咥えて横たわっています。生活に困ることはないのでそうしているのでしょうが、何もなさずに日がな阿片を呑んでいる姿は、新太郎のような酒と博打の好きな男ですら、「これは亡国の民だ」。と思ったそうです。

 商人にブリキ板を注文すると、仕入れに手付金が必要だから半金を先にくれ。と言います。中国人に先に金を支払うことは危ないからよせ。とみんなから言われていたのですが、中国人が必死に懇願するため、やむなく支払うと、物が届かず、相手は逃げてしまいました。

 あとで街中で出会って道具の催促をすると、とぼけて人違いだと言い張ります。嘘やごまかしが日常で、全く信用できない連中だったそうです。

 新太郎は、中国人を見て、「結局イギリス人や、フランス人に土地を奪われたのは、イギリス人やフランス人が無謀だからではなく、中国人がだらしない生活をしているからかすめ取られるのだ」。と思ったそうです。

 結局新太郎は、いい仕事を手に入れながらも、だまされたり、ごまかされたりして、無一文になって戦争末期に帰国をします。

 

 大連にいたときには食べることには心配はなかったのですが、日本に戻ると、食べる物がありません。空襲があちこちでありましたから、屋根の仕事は不自由しなかったのですが、稼いだ金はあっても食料や資材が手に入らないのです。

 幸い親父(私の父)、は劇団を作って、農村や、軍隊の慰問を熱心にしていましたので、週末になると、会社を休んで慰問に出かけ。米や、小豆、大豆、酒などを山ほど抱えて帰ってきますした。お陰で、よその家よりも随分食料には恵まれていたようです。

 当時親父は東京計器に勤めていて、戦闘機のメーターなどを作っていました。軍需産業で儲かっていました。慰問から帰るたびに、課長にコメや酒を持って行くと、課長は大喜びで、親父がいない間は、毎日タイムレコーダを押してくれていて、休みの日も出勤になっていました。親父に文句を言うどころか。「次はどこへ行くの。いつ」。と聞いてきたそうです。

 

 新太郎は、大陸から帰ると、仕事をするために時々朝鮮人を使ったそうです。何しろ日本人の男はみんな戦争に出てしまい、人手が足らないのです。当時、日本にいる朝鮮人は、随分生活に困窮していたそうです。多くは日雇いのような仕事をして生活していたそうです。

 新太郎は、物資が不足しているために、ブリキ屋が必要な、ブリキも半田も、塩酸もなかなか手に入りません。

 そこで、物は試しに朝鮮人に、「ブリキ板はないか、半田はないか」と尋ねると、どこでどう工面したのか、数日のうちに持ってきたそうです。彼らは独自のルートを持っていたのです。塩酸でも、簡単に手に入れたそうです。

 仕事の際の荷物担ぎでも、何でもします。その都度、日本人と同じ手間賃を支払うと、涙を流して感謝したようです。

 日本国内では、朝鮮人を、嘘やごまかしが日常で信用できないと言って嫌う人が多かったようですが、新太郎そうした差別はしなかったのです。少なくとも大連の中国人よりも、日本国内の朝鮮人の方が信頼できると思ったそうです。

 食糧難は戦後になって戦地に行っていた兵隊が帰国をしてからの方がひどく、日本中飢餓がやってきます。新太郎は朝鮮人の家に行くと、崩れかかったような借家の中に子供が5人も6人も一緒に暮らしています。新太郎は、訪ねて行くたびに子供たちに親父が慰問に出かけてもらって来た、小豆で作ったおはぎなどのお菓子や、ノートや鉛筆を持って行って渡したそうです。

 朝鮮の家族は感謝をして、新太郎の仕事は率先して手伝ったそうです。時に、肉が手に入ったからと言って、届けてくれることもあり、肉などこの半年の間食べたこともなかったため、新太郎一家は久々すき焼きをして盛り上がったようです。

 然し、後で昨日の肉が一体何の肉なのかと、家族で考えたときに、どうも犬の肉ではないかと言うことになり、以後は肉はもらわないようにしたそうです。

 

 いずれも戦前から戦後すぐの私の知らない時代の話ですが、私が子供のころ、新太郎さんが話していたことを今朝思い出して書きました。80年前の話です。

続く