手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

誰に遺すか

誰に遺すか

 

 ブログではお伝えしませんでしたが、今月の初めから体調に異変がありました。幸い今は解決しました。その顛末をお話しします。

 今月初め、右足の薬指の付け根が少しむずがゆく。「虫に刺されたのだろうか」。と思っていました。それが足の指の周りが腫れて来て、やがて足先が赤くなってきましたので、「これは何かある」。と思い、6月10日、高円寺の皮膚科に行きました。

 診察室に入ると、糖尿病の薬や、糖尿の進行状況を聞かれ、先生も助手も真剣になっています。私は、「水虫ですか?」。と尋ねると、先生は「水虫ですが、そこから細菌が入っているかも知れません」。と言われました。私は若いころに水虫に罹ったことがあり、でもそれは完治しています。以来、30年、水虫は出ませんし、なぜ今水虫になったのかもわかりません。とにかく細菌が入ったとなったら心配です。

 抗生物質をもらい、帰宅をしました。本当は、その日に踊りの稽古があったのですが、足が腫れているので休みました。7月には浴衣浚いがあって、清元の「玉屋」を踊ります。最近とみに記憶力が悪くなっていますので、一日も休みたくはないのですが、足が腫れては休まざるを得ません。

 

 数日、静かにしていたのですが、足は徐々に赤から青く変化し、右足だけが異常に腫れてきて、足袋が履けなくなりました。「これはまずい」と、14日の月曜日の朝、糖尿病の主治医の石橋医院に連絡をして病院に出かけました。

 石橋先生も真顔になり真剣に調べてくれて、採血をして、点滴の中に抗生物質を入れて直接体に抗生物質を送りました。ことが大掛かりです。石橋先生は「場合によっては壊疽(えそ)になる可能性があります」。と言いました。

 壊疽と言うのは体の末端が腐ってゆく病気で、糖尿病が進行した際にかかる病気です。そのまま放置すれば足を切断することになります。私の糖尿病はそこまで重いものではなく、酒を控え、甘いものもほどほどにしていますし、米、麦類も量を抑えていますので、最近の数値は悪くはないのです。血管も問題はありません。

 そうであるなら別段問題にならないはずです。然し先生いわく「糖尿病の患者さんは足先から菌が入ったりすると壊疽になりやすいのです。水虫であっても、傷の破れ目から細菌が入るととても危険です。とにかく抗生物質の薬と、水虫の薬を渡しますのでしばらく呑んで様子を見て下さい」。

 足は別段痛くはありません。歩くことも普通にできます。然し、激しい動きは駄目だそうです。さて病院の帰り道、三軒茶屋の駅前に中華料理店の銀座アスターがありました。店はなかなか高級です。入ってみました。メニューを見ると、海鮮炒めチャーハンがありました。「おや、これは、もしや、福建チャーハンか」。

 私が10数年前に台湾に行った時に食べて感動した福建チャーハンです。その後あちこちで食べましたが、いまだ台北で食べた味に匹敵するチャーハンに出会っていません。料理は至って単純で、卵チャーハンに、海鮮の炒め物が上から掛かったものが福建チャーハンです。

 そんな料理なら、どこでも食べられそうなものですが、どうして、どうして、どこで食べても物足りないのです。ここであの味に出会えたなら、足に病原菌が入ったとしても、今日は決して悪い日ではありません。楽しみに料理を待つことしばし、出て来ました。

 大きな皿に卵チャーハンが乗っていて、そこにたっぷり炒め物があんかけになって乗っています。エビ、イカ、きくらげ、シイタケ、青梗菜などを白湯スープと醬油味でまとめてあります。素材もいいし、味も悪くありません。然し、台北の香港飯店の味には及びませんでした。

 出がけに支配人が寄って来て、「お味はいかがでしたか」、と聞かれました。「少し油が強かったね。私には少しくどかった」。と言いました。支配人は名刺をくれて、「ぜひまたお越しください」。と言います。そして、私が店を出て地下鉄の駅に行くまで見送ってくれました。

 どうも私を料理研究家か何かと勘違いしているようです。こんなケースはしょっちゅうあります。どうも私はただものではない雰囲気があるらしいのです。確かに私は食べることが好きですが、だからと言って食の知識が深いわけではありません。私はただの水虫を患った手品師なのです。

 家に帰ると、4時からカズカタヤマさんが訪ねてきました。MIKIさんと一緒です。8月の板橋文化会館のショウの打ち合わせをしました。

 

 翌日になって、腫れは一層ひどくなり、右足が水を含んで餅のように腫れています。「これはいよいよ壊疽かなぁ」。と思い、私は観念して自身の身辺整理を考えました。私の家には膨大な資料や小道具がたくさんあります。

 道具も大事ですが道具製作者との人脈も重要です。道具一つ完成させるためには、指物師塗師、蒔絵師、飾り金具師、房紐、金襴生地、などなど、たくさんの人の協力を必要とします。それらすべての人を把握していなければ、一つの道具はできません。この人脈を絶やしてしまってはもう二度と道具は作れないのです。。

 私に何かあれば、今の家は女房と娘に譲ることになります。マジックの道具はどこか別のところに移さなければなりません。そうなると大きな倉庫や事務所が必要です。それを仮に弟子に任せるとしても、今の弟子がすべてを引き受けることは無理でしょう。

 まぁ、小道具類は、譲ると言えば大樹も、前田も大喜びでしょう。ただ、問題は大道具です。水芸、一里四方取り寄せ、壺中桃源郷、そのほか手妻、西洋マジックのイリュージョンなど、ごっそりあります。出来ることならあちこちに散逸しないで一切を引き受けて管理してもらいたいのです。

 

 無論そうしたことを想定して、私は藤山の手妻を家元制度にして、会員から名取料や師範料などをもらって、日ごろの維持費に充てるように考えました。

 私自身、家元制度などと言うものは何の興味もありませんでした。然し、この先を考えると、事務所はどうする、道具の倉庫は、資料は誰が管理する、と言う話になると、一人の弟子の稼ぎで維持できないことは明らかです。

 そうなると周囲の手妻の理解者の支援がない限り、この先手妻は残り得ないことになります。行く行く私が別に建物を建てて、建物と道具を弟子に譲ろうかと考えていましたが、今日ここにいきなり私の寿命の問題が迫って来て、決断を求められたのです。

 この日、前田を前に、先々のことを話しましたが、まだ前田では何一つ解決はできません。然し、伝えることは伝えました。

 ところが、足の腫れは、その日がピークでした、翌日からは収まり、足も赤黒かったものが平常に終息したのです。「心配したほどではなかった」。と一安心です。

 でも、同じことが十年後に来るであろうことは予測できます。今からその日のことを考えておくのは無駄ではありません。何はともあれ、めでたし、めでたし。

続く