手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

あがり症って何 3

あがり症って何 3

 

 私が、楽屋で吐き気がするほど緊張したのは、余りに多くのことを抱え込みすぎていたのです。慣れない手順を演じ、いい顔を見せて、いい青年を演じ、仕事に結びつけて、収入を上げたい。などとあれもこれも望みすぎていたのです。一度、背負ったものをすべて降ろして考えて見たなら、パブで見せる芸人など大したものではないのです。あがりの原因は自分を背負いすぎているのです。

 但し、私のあがり症は、徐々に日ごろステージで演じている内容よりも、よりハードな演技を自主公演で演じているうちに、その過酷さに慣れて来て、普段の手順であがることはなくなって行きます。

 常に条件の厳しい舞台を経験していれば、メイン手順がいかに楽か、しみじみ有難みを感じるはずです。自分がメインで演じている手順であがると言うのは、やるべき稽古が不足しているだけなのだと思います。

 日頃の稽古が、中途半端なまま、自分が「この辺で大丈夫だ」。と見切りを付けてしまうから、曖昧なまま、うまく行かずに、結果本番で、わずかなスチールをミスしたり、タイミングを間違えたり、セリフが前後して説明が伝わらなくなったり、基本的な失敗を繰り返すのです。基本をおろそかにするからあがるのだと思います。

 舞台は万全な演技を出さなければ常に不安です。仮に、未熟な稽古で上手く行って、拍手喝采したとしても、それは偶然なのです。むしろそうした成功はその後にとても怖い結果を生みます。偶然の勝利は次の慢心につながります。

 

 私は30代になると、世間からの信用もついてきて、いい仕事が回ってくるようになりました。普通に頼まれるショウですら、60分、100分と言う大きなショウを依頼されるようになります。

 そうなると、アシスタントや、スタッフ一同で10人15人と言う編成を指揮するようになります。傍から見たら、大きな仕事をして、大きな収入を得て、人が動いてくれてずいぶん楽だろうと思われますが、飛んでもありません。これが簡単なようで簡単ではありません。

 座員全員が舞台に集中すると言うのはとても難しい仕事です。何しろ、金で雇われている人たちはなかなかマジックを自分事と考えて舞台に集中してくれません。しばしばリハーサルでしたことを忘れます。弟子も同様で、時々無責任な仕事をします。

 そうすると、人の失敗がとんでもない舞台になる時があります。

 

 水芸は、始めは暗転で始まります。真っ暗な中で、才蔵が「東西、東西」と声を張り上げて、木頭を打つと、舞台はぱっと明るくなって、その瞬間、真っ赤な欄干が舞台一面に広がり、お客様がわっと歓声を上げます。そして上手から私がゆっくり出て来るのですが、ある日、私が出て来ると、欄干の上にある椅子にポリバケツが置いてあって、バケツに雑巾がかかっています。

 リハーサルで稽古をした時に弟子が置き忘れているのです。古典芸能だの、芸術祭受賞者だのと持ち上げられても、ポリバケツ一つで台無しです。私が先に気付いていれば何の問題もないのですが、この時私は楽屋で急いで衣装を着かえ、舞台袖にやってきたばかりです。舞台袖は暗転で舞台が見えません。チェックが効かないのです。明るくなって出て行ったらポリバケツです。これは気持ちが一気にしぼみます。

 そんな時でもやる気をなくしたり、諦めたりはできません。裃を着た大名役の私が欄干に上がるときに、何気にバケツをどけて、才蔵に渡し、表向きは冷静に、中央に立ちます。正直やりにくいのですが、もう元には戻せません。本番は何が起こるかわからないのです。大きな仕事はどこかで人を信用して細部を任さなければなりません。

 こんな時に、私があがってしまったり、パニックになってしまっては舞台が台無しになります。努めて穏やかに、いつもと変わらない気持ちで演じなくてはいけません。大きなショウをすると言うことは、些末なことにこだわってはいられません。何が起ころかわからないのです。何が起こってもとにかく演じ切らなければいけません。

 こんな時、自分のメイン手順がうまく行くかどうかと、ドキドキしているなんて言う人は幸せだと思います。大きなショウをする者は、人の間違いまで背負わなければいけないのです。自分があがっているゆとりなどないのです。

 

 こんな仕事を続けているうちに、30代あたりから、私の顔が気難しくなって行きました。年齢と言うこともあるとは思いますが、つるりとした愛嬌のある顔ではなくなって来ます。これはまずいと思いました。

 お客様はマジックを楽しみたくてやってくるのです。それが気難しい顔をしたマジシャンが出て来ては、ショウを楽しめません。私は努めて笑顔を見せて、ばかばかしい話をします。多少なりともお客様に緊張を与えないように気を使います。

 しかしそうすると、また自分の子供のころの記憶がよみがえり、作り笑顔をしながら、演じるマジックが、本当に自分のしたい世界なのか、と自問自答します。つまり私は気難しいのです。

 もっと、明るく楽しい演技をしなければと思う反面。もっと心の中に素直な演技をしなければならない。と相反する演技を主張して、心の中で悩みます。こうした性格は一生続くのでしょう。

 

 50歳を過ぎて、マジックのパーティーなどに顔を出すと、何となく若い人が私に遠慮するようになりました。よく考えて見たなら、私も若いころは、50、60歳のマジシャンの傍に行って、ペラペラしゃべることなどできませんでしたから、当然なのです。

 でも、このころ、出来ることなら、若い人に役に立つようになりたい。と、思うようになり、幸い、「そもそもプロマジシャンと言うものは」と言う本を出しましたので、若い人が遠巻きに私を見ていますが、実はいろいろ話を聞きたいんだろうと思い、なるべく私から若い人に話しかけるようにしました。その時、顔つきも気難しい顔をせずに、ばかばかしい話を交えて話すように心がけました。

 50,60代の人が黙っているだけでも若い人にとっては怖いのです。なるべく、若い人の緊張を解くように努めるのですが、私自身が無理に私を演出して、私自身を演じていると、「これでいいのかな」。と思います。多分いいのでしょう。然し少し疲れます。

 大人とはこんな風に常に別人格を演じて生きているのでしょうか。そうであるなら、私が疲れるだの、つらいだのと言うのは贅沢です。毎日こんなことをして、多少の緊張をして、人の役に立つなら、これも我慢と考えています。

続く