手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

踊り をどるなら 4

踊り をどるなら 4

 

 日本舞踊が、歌舞伎から独立して、単独に舞踊として見られるようになったのは明治以降だそうです。それ以前は、歌舞伎の中で役者が演じていたわけで、専属の舞踊家と言うものはいなかったそうです。その舞踊は、役者の中で振り付けの才能のある人が、芝居の傍ら振り付けをしたり、役者が直接振り付けをするなどして、舞踊が作られていたそうです。

 舞踊家と言うものが生まれて、生徒を取って指導するようになったり、単独におさらい会(発表会)を開いたりするようになったのは明治以降です。ここからたくさんの流派が発生します。今でも残っている、坂東流藤間流花柳流若柳流西川流、などなど。たくさんの流派が生まれました。

 私が子供の頃にはどこの町にも何軒かの舞踊の稽古処があって、その頃は、小学生の女の子がたくさん踊りを習いに通っていました。私が稽古場を覗きに行くと、習っている女の子が、たくさん稽古待ちをしていて、みんなでお菓子を食べているのがうらやましかったのを覚えています。

 あまりに習いに来る子供が多すぎるため、ただ待合所にいては退屈するので、踊りのお師匠さんは、子供たちにお菓子を与えていたのです。子供はお菓子がもらえるのが楽しみで、踊りの稽古に通っていたわけです。

 舞踊は、着物の着方、立ち居振る舞い、挨拶の仕方まで教えますので、行儀を習うのに役立つと、親は熱心に子供を踊りに通わせたのです。

 

 ところがその後、町の稽古処がだんだん振るわなくなってきます。日本舞踊だけでなく、バレーや、ピアノ、バイオリンなど、どこもだんだん子供たちが集まらなくなって行きます。子供たちは、塾に行くようになり、稽古事は流行らなくなって行ったのです。

 同時に着物を着る、畳に座って生活すると言う日本文化が徐々に失われて行きます。こうなると、三味線、琴、舞踊は生徒を減らし、限られた趣味の世界に追いやられて行きます。

 芸能は、平成に至って、日本文化の見直す時代があり、能や、狂言、歌舞伎などが人気を得るようになって行きます。狂言や歌舞伎からは続々スターが出て来るのですが、なかなか舞踊からはスターが現れません。舞踊界とはスター性のない社会なのでしょうか。いやいやそうではないように思います。

 

 舞踊は、着物を着た日本人を実に美しく見せます。日本人の骨格が舞踊にはちょうどよく見えます。日本人の欠点を隠し、その上、日本人の美しさを強調します。そもそも舞踊と言うものが、どうしたら美しく見えるか、と言う美意識から成り立っているものですから当然です。

 傘を持って立つ、ただそれだけでもなかなか美しく見せるにはテクニックが必要です。試しに、傘を持って舞台に出て来て中央ですっと立ってみて下さい。立ち姿が奇麗に見えますか。奇麗でないとしたら何がいけませんか。どうしたらいいですか。ただ出て来る、ただ立つと言う、それだけのことが実は簡単ではないのです。

 実際に傘をさして右手に持ったとして、右手はそれでいいのですが、左手はどこに置いたらいいでしょう。足はどのように立ったらいいでしょう。軸足はどっちに取ったらいいでしょう。顔はどこを見たらいいでしょう。それら全体をどう構えたらいいでしょう。と考えると、舞台に上がって手も足も出なくなってしまいます。更に、同じ格好ばかりしていられませんから、次の動作に移らなければいけませんが、動作を変えるときにどう動いたらいいかとなると、どうしていいか分からず、手も足もすくんでしまいます。

 こんな時に、曲に乗って、どこから見ても美しく自然に動くにはどうしたらいいか。それを解決するには日本舞踊を学ばなければならないわけです。

 

 今、私が稽古をしているのは、清元の「玉屋」と言う作品です。玉屋とはシャボン玉屋のことで、水で溶いた玉薬(たまぐすり=シャボン玉液)、を、辻々で子供に売って歩く小商いの姿を舞踊にしたものです。子供を集めてはシャボン玉を膨らませ子供を喜ばせ、同時に市井風俗を踊って見せる、軽快な舞踊です。踊り手としては手数が多く、テンポが速いため、習得するには苦労しますが、やっていて楽しい踊りです。こうした作品なら、初めて舞踊を見る人でも結構楽しめるのではないかと思います。

 シャボン玉売りが町の一角で子供を相手に遊んでいる姿を、10分、15分、切り取って舞台で演じて見せるもので、作品は天保時代のものです。

 踊りの途中でおもちゃの蝶々を飛ばすところがあります。これは、当時人気だった柳川一蝶斎の蝶を飛ばす手妻にあやかって、物売りが、ひごの先に針金を付けて紙の蝶を飛ばすおもちゃを売っていたのを取り入れて、玉屋の踊りに加えたものです。舞踊にまで蝶が入って来るのですから、天保時代の一蝶斎の人気は大したものだと思います。

 さて、玉屋は何がテーマかと問われても、別段テーマなどはないのです。お終いまで見てその結論は何かと尋ねられても何もありません。日本舞踊と言うものはそうしたものが殆どです。

 下手の花道から出て来て、舞台中央に立ち、自分の身の上などを踊って見せ、時に、女から男、商人から侍などを演じ分けて見せて、ジャラジャラと市井を演じて、さて何も結論は語らずに、すぐに帰り支度をして、また次の場所に去って行く。ただそれだけのものです。

 日本の芸能は、結論と言うものはほとんどありません。むしろその道中の市井風俗を演じる所に眼目があります。娘が徐々に年を取って行くところを動作で仕分けるとか、侍がその動作から身分の高さを感じさせる所作をして見せるとか、微妙な動作の中に、人の生き方が語られて行きます。これを昔の人は面白いと感じたのです。

 「往く道に花あり」。これは私が色紙を頼まれると時々書く言葉です。行った先に何かがあると言うわけではなく、行く道の脇に咲く花を眺めて楽しむことが旅の目的だ。と言うような意味です。日本の芸ごとの本質を語っている様に思います。結論よりもその道中にこそ意味があるのが舞踊です。

続く

 

 明日はブログをお休みします。