手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昔の老人 2

昔の老人 2

 

 さて私の祖父ですが、この人はブリキ職人でした。当時は、店の看板や屋根、雨樋などをブリキで作っていました。今なら既製品があるため、なかなかブリキ屋と言う職業も成り立ちにくいかもしれません。当時はすべて手作りが当たり前でしたから、かなり忙しく仕事をしていました。今ならブリキ屋と言いますが、当時は銅古屋(どうこや)と言いました。

 銅古と言うのは、銅板を使って半田鏝(はんだごて)でものを作る職人のことで、昔の木製の長火鉢の内側に銅板を張ったり、台所の流しを銅板で作ったりしていたのです。但し、流しを銅板で作る家と言うのはかなり裕福な家です。古くは銅板で仕事をしていたものを、その後ブリキが普及するとブリキ板で細工をするようになりました。

 それでもお寺の屋根を全部銅葺にするなんて言う仕事が来ると、最高にいい仕事で、若い衆を数人雇って何か月もかけてやっていました。銅板は切れ端が出るとそれはすべて職人の取り分になり、切れ端が高値で売れて、飲み代になります。お陰でお寺の銅葺仕事は毎晩酒盛りが出来たようです。

 その祖父ですが、私を大変に可愛がってくれました。その可愛がり方は猫っ可愛がりで、小遣いをくれたり、本を買ってくれたり、寿司屋に連れて行ってくれたり、毎日私が喜ぶことを工夫して遊んでくれました。

 然し、なんせ耳が少し遠く、大きな声を出さないと聞こえません。また、酔っぱらうと同じ話を何度も繰り返しました。下の歯は総入れ歯で、よく入れ歯を出して私に見せるのですが、汚らしくてそれを見るのが嫌でした。祖父は私が嫌がるのが面白いらしく、何かと言うと入れ歯を見せました。昔の年寄りはどうしてああも子供の嫌がることをするのでしょうか。

 祖父は小柄で太っていて、その体格は私の親父ががそっくり受け継ぎました。当時の年寄りはみんな小柄でした。祖父は着物にはおしゃれをしたようで、夏物も、浴衣ではなく、絽の着物などを持っていました。絽の着物でどこに行こうとしたのかは知りませんが、なかなか粋な人でした。

 祖父の遺品で紋付の羽織や袴、着物がありましたが、親父は体形が合っているにもかかわらず、一切着物は来ませんでした。そこで、私がもらいましたが、私には全く着られませんでした。

 

 祖父はいつも耳に百円玉か十円玉をはめていて、十円ならそれを小遣いにくれました。そのため私は祖父に会ったときには必ず耳を見る癖がついていました。それから、仕事先でお茶請けに出されるまんじゅうなどは、持って帰れば私が喜ぶことを知っていますから、食べずにチリ紙にくるんで腹巻の中に入れて持って帰ってきます。

 それをすぐに出せばいいものを、私が祖父の帰りを喜ぶ姿を見ながら「何か甘い匂いがしないかな」。などと言って菓子を持っていることを匂わせ「こっちの腹巻の方かな」、などと言って、関係ないほうを探らせて、散々じらしてから出します。子供が真剣にお菓子を探す姿が楽しいのでしょう。

 チリ紙にくるまった大福なら腹巻にしまっても、まだ問題なく食べられますが、たまにショートケーキなどの場合は、チリ紙の中で丸まってしまい、腹巻の中で汗臭い匂いにまみれてしまって不味そうな姿で出て来ます。

 無論、ショートケーキは食べたいのですが、いかんせん、丸まったショートケーキは食欲がわきません。もう少し子供の夢を考えてくれたらどれほど有り難いか、と思いました。こんな他愛もないことで孫と遊ぶのが祖父の喜びだったのです。

 と、こうして話すと、祖父は相当に年寄りに思えますが、あの時幾つだったのかと今考えると、実際には50代の末でした。50代で耳が遠くなり、顔には皴が寄り、酒を飲むと同じ話ばかり繰り返していたのです。それが63歳で亡くなっています。今の私よりもずっと年下だったのです。

 今の私に当時の祖父のしぐさや動作があるかと言うと、全くないように思います。(と、私は思っていますが、実際は年寄り臭いのかもしれません。案外同じ話を何度も家族や弟子にしているのかもしれません)。冷静に考えて、昔の人は老化が早かったと思います。

 祖父と同年齢の職人が訪ねて来て話をしている様子を見ても、やはりものすごい年寄りに見えました。額から頬から皴だらけで、歯は少し出っ歯で、金歯がいくつも並んでいました。今は少なくなりましたが、出っ歯、金歯の人はたくさんいました。

 その祖父の友人は、話をしながら、息を軽く吸い込み、口の両脇から奥歯に送るのが癖でした。息を吸い込むときに小さく「しっ」、と言う音が聞こえました。それが妙な調子がついて個性的な話し方でした。

 「あっしら職人はねぇ(しっ)、学問がありませんのでね(しっ)、体で覚えた仕事がすべてでさぁ(しっ)」。と言った話し方でした。こんな話し方をする人を現代で出会うことは先ずありません。

 ああした年寄りはどこへ行ってしまったのでしょうか。あの話し方、生き方は継承されないのでしょうか。いなくなると妙に寂しいものがあります。今の私よりもずっと若い人が老人臭く生きていたのを思い出すと、自分自身はとんでもなく古い時代を覗いていたんだなぁと、奇妙な気持ちになります。

 祖父は酒飲みで、一度脳溢血で倒れています。家族は祖父が長生きはできないとみんな思っていました。63歳で亡くなったときも、誰も早死にだとは言いませんでした。当時としては平均だったのでしょうか。働くだけ働いて、体が言うことを聞かなくなったら寿命が来た。そんな一生だったように思います。今の私よりもずっと楽しみの少ない人生だったと思います。

続く

 

 明日はブログをお休みします。