手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時流を読む 4

時流を読む 4

 

江戸末期のコレラ地震、黒船

 1853(嘉永6)年にアメリカからペリーが艦隊を引き連れて日本にやってきて、開国を迫ります。政府は渋々翌年にアメリカと和親条約を結びます。この辺りは教科書で学んだ通りのことです。

 外国との貿易を始めると、日本国内の産業はバランスを崩し、急に食糧難に陥り、天井知らずの物価高が起きます、なぜ貿易をすると日本が物価高になるのかと言うと、

 当時の日本は、食料も衣類も、日本国内で使う分だけ作っていたために、物に余分はなかったのです。それがいきなり貿易をするようになれば、ほかの生産を犠牲にしなければなりません。落語に、風が吹くと桶屋が儲かるという話があります。あれは決して笑い話ではありません。実際の世の中の仕組みをうまく語っています。

 例えば絹を売るとすると、蚕を育てなければなりません。蚕は桑の葉を食べます。そこで桑の木を大量に植えることになります。そのため麦畑や大豆の畑をつぶさなければなりません。働く人の数もゆとりはありませんから、人が絹を増産すればほかの仕事はできなくなります。当然、田畑も不足します。結果食料が不足します。そうなると麦や大豆の価格が一遍に値上がりするというわけです。

 貿易をいきなり拡大すれば国内需要がひっ迫するわけです。方や絹を売って大儲けをする人がある反面。食料が値上がりして生活して行けない人が続出したのです。これが当時の人々の不安の種につながってゆきます。

 そんな時期に嘉永から安政にかけて、日本各地で地震が頻発します。最悪の事態は、1855(安政2)年に、江戸に大地震が起きます。当時の地震はすぐに火災に結び付き、江戸の町の大半を焼き尽くします。一晩で財産を失う人、子供を身売りしてその場をしのぐ人が続出します。庶民の不安に一層拍車をかけます。

 そこへもって、1858(安政5)年に日本中にコレラが蔓延します。コレラは実は1822(文政5)年に一度流行しています。この時のコレラは長崎で発症し、九州を襲い、東へ伸びてきましたが、江戸に至らず、その後沈静化しました。

 コレラコレラ菌により感染します。主に水や食べ物を介して広がります。このことは江戸時代の医者も理解していたようで、盛んに生水を飲まないようにと注意を呼び掛けています。罹ると三日のうちに死亡してしまい、当時の人はあまりに呆気ない死を見てこれをコロリと呼びました。狐狼狸(コロリ=きつねおおかみたぬきと書いてコロリと呼んだのです)。

 実際当時の人にはコロリの原因はわからず、狐や狸の仕業と考える人もいたのでしょう。得体のしれないただただ恐ろしい病気だったのでしょう。1858年のコレラは江戸に入り込み、猛威を奮いました。7月には江戸の入ってきて死者が増大し、江戸では毎日500人を超す死者が出たそうです。浮世絵の安藤広重コレラに罹り9月6日に亡くなっています。これが明治になるわずか10年前のことです。

 

 歴史の勉強はこれくらいにして、この時代に人々はどう生きたのかと考えるなら、今日のコロナウイルスとは違い、外出を控えるとか、飲食を控えるなどと言うことはなかったようです。但し屋台の食べ物は危険視していたようです。原因のわからない病気のせいで人は厭世的になり、すべてをあきらめる、刹那的な生き方をする人が続出しました。それはある意味やむを得ないことかもしれません。

 なぜなら、外国が押し掛けて来て脅しをかけてくる。地震が起きて多くの人が死ぬ、コロリが蔓延して焼き場が間に合わない程に人が死ぬ。こうしたことは人一人がいくら対処して生きようとしたところでとても解決のできないことばかりだからです。

 当時の人々はただただ世の中に流されつつ、狼狽えていただけだったのでしょう。それは庶民だけではなく、政治を仕切る幕府自体も、何をどうしていいのかわからなかったはずです。誰一人この先どんな時代になるのかわからないまま不安を抱えて生きていたのです。そうなると人は先のことを考えなくなります。

 

 ところがそんな時代こそ芸能にとっては大きなチャンスだったのでしょう。当時の江戸、京、大坂は爛熟した江戸末期の文化が花盛りで、緩んだ政治を幸いと、興行は野放しの状態になり、活況を呈します。黙阿弥はやくざ者や、盗賊の芝居を書き続け、いかにして善男善女が盗賊の道にはまって、悪事をするようになって行ったかをまるで悪事を肯定するがごとく芝居で表現して見せたのです。

 それを見た庶民は、盗賊を否定するどころか、彼らに共鳴し、自分の境遇に置き換えて熱狂したのです。無論、結末は勧善懲悪に終わるのですが、庶民は結末を見たくて芝居に通うのではなく、悪事を働く人間の性の悪さを面白がって見ていたのです。

 そんな中で、曲独楽の早竹虎吉や、竹沢藤次、手妻の二代目柳川一蝶斎などは興行で当たり続けます。先の時代のわからない庶民は、今この時の楽しみのために惜しげもなく金を支払って快楽を求めようとします。

 この時期、初代の一蝶斎は存命でしたが、高齢のために、殆ど舞台に出なかったようです。弟子は何十人もいて、蝶の芸は日本各地で演じられていたようです。さて、その日に食べる金にも困っているような庶民が、なけなしの銭を払って小屋掛けに入り、二代目一蝶斎の飛ばす紙の蝶を見て、一体人は何を思ったのでしょうか、私の興味は尽きません。ただ、ぎりぎりの境遇の中で見る芸能はきっと光輝いて見えたことでしょう。

 翻(ひるがえ)って考えるに、コロナに時代に、我々は光り輝く舞台をお客様に提供しているでしょうか。将来の見えない時代に希望を提供しているでしょうか。そう考えると、もっともっとやるべきことはあるように思います。

続く

 

 明日は日曜日ですのでブログは休みます。