手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

女剣劇 浅香光代さん

女剣劇 浅香光代さん

 12月13日に浅香光代さんが亡くなりました。私の知っている浅香さんは、テレビで野村沙知代さんと、言い争いをして、それが裁判沙汰にまでなった騒ぎからでした。互いが威勢が良くて、男勝りですから、二人の喧嘩は話題になり、連日お昼のワイドショウ番組をにぎわせました。それも平成12,3年くらいのことでしょうか。

 このお婆さんは私が、年に春と秋の二回、両国のシティコアと言うビルの敷地内で、両国伝統祭と言う催しをしていた時に、何度かお手伝いをお願いし、その折、打ち上げの宴会の席で色々お話を伺いました。

 浅香さんが活躍したのは昭和20年から30年代でした。女剣劇と言う看板で、当時の浅草常盤座を連日一杯にしていた女座長だったのです。常盤座は、私がよく出ていた松竹演芸場の向かいにあり、松竹演芸場よりも一回り大きな劇場でした。私の知る限りはもう映画館になっていましたが、昭和30年代まではここで女剣劇をしていたと、親父が言っていました。

 従って、女剣劇が大流行していた時代を私は知りません。そもそも女剣劇とは何かというと、今も続いているやくざの股旅物の芝居をする一座のことのようです。

 浅香さんは子供のころから旅回りの芝居に出ていて、美人だったために一座の看板女優として人気があったようです。それが座長が病気で亡くなり、一座は解散かと言う段になって、座員から浅香さんに座長になってくれと頼まれたそうです。その時浅香さんは16歳。昭和19年のことです。

 当時、女の座長は珍しく、やっている芝居の内容が、やくざ者ですから、16歳の娘が男役になって着物を尻っぱしょりをして、腿まで見せて立ち回りをすることが珍しかったのです。下着をつけてはいますが、見得を切ると型によっては腿の奥まで見えてしまいます。それが色っぽいと、お客様がわんさか押しかけて、大人気です。男勝りとは言っても10代の女性です。足は真っ白で、セクシーだったのです。とにかく一座は大当たりで、浅草の常盤座を根城にして大活躍をします。それが昭和30年代まで続きます。

 その後は地方公演をして一座を支えて行きますが、やがて大衆演劇にお客様が離れて行きます。その後は、殺陣(たて=立ち廻り)の指導をしたり、浅香流と言う舞踊の流派を起こして日本舞踊を指導したり、色々活動をしていました。

 浅草の寿町の交差点に事務所を構え、かなりのお客様を集めて舞踊の指導などしていたようです。いつのころからか、テレビのワイドショウに出演するようになり、威勢のいい下町言葉でズバリズバリ物を言うおばさんとして再び脚光を浴びます。

 何にしてもあの呆気羅漢とした性格は最大の武器です。そばにいると強いオーラに吸い込まれます。「あぁ、こういう人が千人の劇場を満杯にする座長なんだなぁ」、と納得させられます。

 

 野村沙知代(野球の野村監督の奥さん)さんとのやり取りでも、野村さんが浅香流の舞踊を習うことになった時に浅香さんは、「だってねぇ、あのしと(人がなまっている)は、しとから踊りを習っている癖に、毎回遅刻してきやがってね。遅刻したならすいませんのしとことでもあればこっちゃ別に何にも言わないのに、すました顔で黙って入って来るんだよ。失礼だよねぇ、あの女」。と言う調子。

 宴会の席で話をしていて、「あたしねぇ、あたしには四分の一、ロシア人の血が入っているんだよ。だからあたしの肌は真っ白。見てごらん」。といきなり勢いよくスカートをまくり、両ひざを付け根まで見せたのです。確かに真っ白でした。そこで私が、「師匠、一度師匠の膝で膝枕してもいいですか」。と言うと、いきなり私の首を掴んで私の頭を膝に押し付けて、「どうだい、気持ちいいだろ」。気持ちがいいも何も、首を押さえつけられているので苦しくて身動きできません。しかしここは師匠を立てて「うーん、気持ちいい」。と言うと「そうだろ、気持ちいいんだ、みんなそう言うよ」。

 これが宴会の席でのことです。殺陣をやっている若い連中が大勢見ていますから、みんな大喜びです。するとこれに機嫌をよくしたのか、「あたしの胸をごらんよ」、と今度はドレスの胸を広げて、おっぱいを出して、「あたしゃもう80過ぎているんだよ、でもおっぱいはピチピチだよ」。と自慢をします。確かに80過ぎのおっぱいには見えません。なるほど、この人がこの年まで一座を回してこれたのは、恵まれた容姿があったからなんだなぁ。と関心をしました。

 然し、感心しているだけでは座が盛り上がりませんから、「師匠、一度そのおっぱいに顔をうずめさせてくれませんか、そこでお母さーんと叫ばせてください」。すると浅香さんは、「よしっ」。と言って、私の首を掴み、私の顔をおっぱいの谷間にはめ込んで、「さぁ、言いな」。と抑え込みます。まるで女子プロレスのような状況ですが、せっかくですから私は「おかぁさーん」。と叫びました。すると浅香さんは、「そうかい気持ちいいのかい」。と満足そうでした。

 

 その浅香さんには数々のファンがいらしたのですが、その中で、大物政治家が浅香さんに惚れ込み、良い仲になって、ついには二人の子供まで作ってしまいました。結婚には至りませんでしたが、政治家はその後総理大臣になったため、何度か総理官邸まで遊びに行ったそうです。浅香さんはその人が誰であるかは一切言いません。息子二人も私生児として育てました。

 総理は、浅香さんの芸を讃えて旭日双光章と言う勲章を送りました。旅回り一座の座長としては破格の勲章です。浅香さんは何でもあけすけなくしゃべりますが、総理の名前だけは決して言いませんでした。陽気で、自由闊達な面白いお婆さんでした。こんな生き方ならぜひ経験してみたいと思うようないい芸人でした、然し、もうこんな人は二度と現れないでしょう。遥か彼方の昭和の良き時代に育った芸人でした。破格の芸人に接して、おっぱいに顔をうずめられたことは幸せでした。

続く