手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンを育てるには 8

大腸癌のポリープ摘出

 今日(14日)は早朝から慈恵医大病院に行って、大腸癌のポリープを摘出します。手術ではなく、簡単に内視鏡で、ポリープが取れるそうです。私の親父がかつて大腸癌になっていますので、いずれ私にも来るかと思っていましたが、やはり来ました。

 昨日(13日)は、朝から3食お粥です。午後に学生さんの指導をしました。休憩時間に彼らにシュークリームなどを出したのですが、私は食べられません。彼らは実にうまそうに食べます。残念です。今朝は朝から何も食べていません。こんな日があってもいいのでしょう。これから慈恵医大に行ってきます。

 

マジシャンを育てるには 8

 ここまで書いてくればお気付きと思いますが、マジックは種仕掛けを指導していればマジシャンが育つと言うものではありません。実践に出して、何度も演技を見て、当人にあった演技を作って行ってマジシャンの輪郭が出来て来ます。

 併せて、仕事関係者との付き合い方、楽屋のマナー、舞台脇のセットの仕方、道具の置き方、管理など、細かく教えて行きます。

 楽屋を自分の道具だけで占拠してしまったり、スーツケースを開けっぱなしにして舞台に出たり、タネ仕掛けを平気でテーブルに並べたままだったり、アマチュアの内は、やってはいけないことを繰り返します。

 それを私が一つづつ指摘します。うるさく言わず、さり気なく話して行きます。あまりにさりげないため、初めは気にもせずに、改めもしない人があります。また、直接マジックに関係のないことは頑なに聞こうとしない人もいます。

 楽屋の化粧前(鏡の前に備え付けてある棚のようなテーブル)に座ってしまう人もあります。椅子と思っているのです。「道具や、時に弁当を食べるところだから尻を乗せてはいけない」。と言っても「なんで」、と聞かれます。それに対して怒ってはいけません。何度も違うと言うことを伝えるのです。そうするうちに世の中でそれが通用しないことを知ります。要は改めることが自身の進歩とわかれば、人は自然に受け入れるようになります。

 楽屋マナーは、私の口から言うだけではなく、先輩マジシャンの口からも言われ、みんなに言われると、初めは反発していても、それでは生きて行けないと気付き、自然と改めるようになります。チームで活動をすると、自然と人の育て方が出来て来ます。

 和の舞台などは、舞台高が低いものですから、つい尻をつけて椅子のように腰かけてしまう人がいます。それもいけません。舞台上は正座でなければいけません。昔の人は、尻を直接舞台につけることを嫌がったのです。なぜかと問われても、答えはありません。マナーに理由などないのです。見た目に敬意があること、大切にしていることが見えることがマナーです。ここが崩れてしまったら、形がなくなってしまうのです。舞台に立ちたいなら、どこかでプロを知らなければならないのです。

 

 私は前にDVDを見てマジックを覚えただけでは人は育たないと書きました。DVDから習えるのは、タネ仕掛けの扱い方だけです。でも、それだけではマジシャンにはなれません。マジシャンは外部の人に認められてこそマジシャンだからです。マジックをする以前から、マジシャンは始まっています。楽屋に入って来る雰囲気から、楽屋の使い方、舞台での道具のセット、舞台上の道具の置き方、全てが洗練されていなければいいマジシャンではありません。それを誰が教えるかと言うと、指導家が教えなければいけません。種だけ教えてマジシャンが育つことはあり得ないのです。

 マジシャンとして、外部の人とどう接するか、同業の人とどう接するか。多くのマジシャンはこうした初歩的なことで、戸惑ってしまいます。彼らはマジックを習う以外、誰からもマジシャンとしての生き方を習ってこなかったのです。

 和に関して言うなら、和妻の仕事を引き受けていながら、帯が結べない。着物が畳めない。楽屋に着物を散乱させたまま、演技を終えた後は丸めてバッグに入れてしまう。そうした姿を外部の人が見たときに、伝統抜芸能を演じている人に見えるかどうか。マジックを演じる以前に学ばなければならないことがあるのです。

 マジシャンとしての生きることのルールやマナーがわかってくれば、生きて行く姿勢に自信が付いてきます。少しづつですがその社会の人になって来るのです。実はそこからマジシャンが出来上がってきます。ただ数多くのマジックを知っている、出来ると言うことだけでは自信にはなり得ないのです。

 

 話を千葉周作に戻しましょう。千葉周作は、幕末期の、剣術を習いたいと言う庶民の熱気に接して、今までの指導方法の間違いに気づいたのです。そして、怪我をせずに、剣術を学ぶ方法を編み出しました。と同時に、庶民ややくざ者が安易に剣を振り廻して喧嘩をする行為を苦々しく思っていたのでしょう。刀を持つ事の誇り、気高さも教えなければいけなかったはずです。剣術の普及で名を挙げながらも、剣術によって悪くなって行く風潮に随分悩んだと思います。

 千葉周作安政2(1856)年に亡くなります。ついに明治を見ることはなかったのです。然し、どこかで明治時代が来ることを予見していたように思います。つまり、「刀はいずれ役に立たなくなる」。と言うことを知っていたのでしょう。そのため、人を倒すための剣術ではなく、リーダーとしての生きる道、剣術ではなく「剣道」を模索していたのでしょう。彼が模索していたのは戦わない軒だったのでしょう。

 

 そのことと私が手妻にして来たことが似ていると言ったらおこがましいのですが、私が種不思議以外の、手妻から学んだ生き方を語る必要を感じたのは40代のことでした。そのためにこれまで講演活動などもしてきました。幸いに手妻をカルチャーと考えて下さる人が増えました。それまで私らの先輩の中で手妻をカルチャーとして語る人はいなかったのです。

 60代になった頃から、急激に手妻に興味を持って、和服を着てマジックをする若い人が出て来ました。あえて言うなら和風マジシャンとも呼ぶべき人たちで、彼らはひたすら傘を出す人たちです。

 そうした人たちが私の接近してきて、話を聞きたがります。求められれば、手妻がなんであるか、話をしてきました。相手がわかったかどうかは知りませんが、言わないよりはましかと思って話をしました。始めは諦めて話をしていましたが、このところ理解を深めて接して来る人が何人か出て来ました。「派手だから、珍しいから」と言う理由だけで手妻をするのでない人たちが出て来ました。いい傾向だと思います。手妻には背景があることに気付いたようです。

 但しそうなら、傘を出すだけでなく、蒸籠や、引き出し、と言った古典ものからしっかり演じてもらいたいと思います。

 

 何にしても、しっかりとした考えを持ったマジシャンが一人でも二人でも育ってもらいたいと思います。他のジャンルの人が見ても、マジシャンはいい世界だなぁ。と思うような世界を作りたいと思います。

続く