手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ミスターマジシャン待望論 4

絵コンテを描いてみる 2 

 昨日の話を続けましょう。3分半であろうと7分であろうと、どんなマジックをするかを考えるときに私は、こまごまとしたトリックのことは考えません。私の場合は初めに大きな全体のイメージを作り上げて、その後イメージに沿って細部の内容を考えるようにしています。 先にお話しした傘の手順の大きな構成はこうです。

 

1、全体を赤で統一する。

 使うものはほとんど赤いものを出します。これは傘の手順の後に演じる蝶が、白い世界(白い紙、白い蝶、白い滝、白い吹雪)であるために、その反対の色を考えました。

従いまして、赤い帯、赤い傘、赤い風呂敷、赤い小切れ、殆どの物は赤を使っています。引出しで唯一白い玉を出しますが、これも後で赤に変わります。

 しかも演じる内容はプロダクション物ばかりです。どんどん物が増える、おめでたいマジックです。物が増えることに理由はありません。単純に増える喜びを表現しています。つまり現実の利益を喜ぶ世界です。

 

2、考え方をまとめる。現世利益の世界

 現実の利益は、仏教では「現世利益(げんぜりやく)」と言います。現世利益とは、賽銭箱に小銭を投げ入れて、「大学に合格しますように」。と願うこと、これが現世利益です。本当に世の中に神様仏様がいたとしても、神様仏様が小銭を貰って、個人の欲望を満たす義理はないのです。賽銭を貰った人を合格させて、くれなかった人を落とすようなことは、神仏(かみ、ほとけ)はしないはずです。然し人はそれを望みます。良くも悪くもそれが人であり、それが現世利益です。ここを否定すると寺社は人が集まらなくなります。でも、宗教の本質ではありません。

 人の欲とは裏を返せばわがままです。わがままが前提に自己の幸せを求めているのです。誠に不安定な世界です。然し、欲に裏打ちされていますので、たくさんの人が集まり、その世界は派手で華麗です。

 

 ついでに申し上げると、その先の蝶の演技時は変化現象です。どんどん移り変わって行く世界を表現しています。これは「無常観」を語っています。物は一つとして同じところにとどまらず、なり替わり立ち代わり生きて行く姿が無常観です。いわば哲学の世界です。私は、蝶の無常を語りたいが故に傘出しの現世利益を前半に持って来ました。

つまり、赤い世界と白い世界の両方が人の営みなのです。そして、赤と白は日本の国旗です。現世利益も、無常観も、日本人の考え方なのです。

 

3、傘をたくさん出さない。

 傘出しの手順なら、傘を何本も出すべきです。然し私は、ポツンポツンと一本ずつ、計四本出すだけです。寂しい傘出しです。なぜそうするか、傘は雨が降ってきたときに一本あればいいのです。二本は不要です。小さな所作をする場合でも、一本あれば十分世界を表現できます。自分の世界を作り上げるのにたくさんの傘は不要です。要所要所に一本ずつ、計四本出せば十分なのです。たくさん出そうとするから、衣装が膨らみ、手順に無理が出ます。一本の傘で世界が語れるならそれでいいのです。

 

4、初めと終わりを統一する。

 昨日書きましたように、私の手順は、初めの傘を出した後に、雨が上がっていることを知り、傘を脇に置き、そこから雨上がりのほんの数分間、太夫が様々なことを思いつつ遊びをします。そしてそのさ中に、また、雨がぽつりと降りだしてきて、4本目の傘を出し、初めの時と同じ見得を切って終わります。つまり、ほんのわずかな晴れ間の時間、太夫が天心無衣に遊んでいる姿を表現して見たのです。

 

5、前半は楽しげに、後半はあえて味付けをしない。

 前半の傘手順は面白そうに、単純に不思議を強調して、軽快に手妻を演じます。後半の蝶の手順は、表情を入れず、じっくりと淡々と演じています。そうすることがよりお客様に無常観が伝わるだろうと考えたからです。幸いにこの手順は評判がよく、多くの新しいお客様の支持を得て、多くの仕事先が開拓できました。

 

 傘出しも蝶も20代から演じてはいますが、全体の手順が出来たのは40歳です。それから今日まで25年、この手順は水芸とともに、私のメインアクトとなっています。

 話を元に戻しましょう。1から5までをお読みになればわかるとおり、私は、一つとしてマジックから手順を考えていません。勿論、引き出しとか、真田紐とか言った古典の作品を演じていますが、それさえも、旧手順とは違います。この手順のために新たにアレンジを加えています。原作とは全く違ったものも考えています。

 つまり、自分がどんな世界を作りたいのかと言う全体のイメージが初めにあって、そこから一つ一つマジックを集めて行ったのです。発想はまるで逆なのです。これは創作活動においてとても大切なことです。

 イフェクトやハンドリングをつなぎ合わせるだけで手順を作ってしまうと、観客に伝えるものは何もなくなってしまいます。なぜなら、手順もハンドリングも、マジシャンの都合だからです。

 始めに予言の封筒を出して、カードの予言をする、次に、四つの山に分けたデックから4枚のエースが出てくる。それは結構なのですが、予言も4Aもお客様が望んでいるものではありません。自身の都合で並べたものなのです。それを状況説明しながら順に演じて行く姿は、マジシャンの都合をお客様に押し付けているだけなのです。

 よく考えてみてください。マジシャンは何をお客様に伝えたいのですか、現象も、手順も、それはマジシャンが受けるための手段です。しかしそれらは何一つお客様が持ち帰って、家の家族に伝えるものにはならないのです。

 もしマジシャンは、伝えるべきものを提供していれば、そのマジシャンの舞台は、次から家族が見に来て、その家族は友達を紹介して、その次にはお客様がどんどん増えるはずなのです。しかし現実はどうですか、客席はマジックの好きなマニアばかりが集まって、演技中にメモを取って、イフェクトや演技のハンドリングを細かく書き込んでいるような人が結構います。どんな人がいてもお客様であることには変わりはありませんが、これでマジックの世界が爆発的に観客が増えるわけはないのです。

 本来マジシャンが伝えなければならなに自分の夢をお客様に伝えていないのです。マジシャン自身が夢を見失って、マジックの世界の些末な技にこだわっているのです。そうならそこに観客が集まらないのは当然のことなのです。

続く