手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

舞台は仕事じゃぁない

 昨日は朝から鼓の稽古、それが終わると前田の稽古でした。午後は道具の修理で一日が終わりです。今日は踊りの稽古、それが終わると事務所に戻って、道具の修理です。明日は神田明神の舞台があります。明後日は玉ひでの舞台です。連日舞台が続くことは幸いです。たとえ20人30人のお客様でも、そこに私を待っていてくれる人がいると言うことが自分の生きがいを感じます。

 

舞台は仕事じゃぁない

 「舞台は仕事じゃぁない」。と言うのは私の親父の言葉です。親父は65歳で大腸癌になって、奇跡的に手術が成功した後に、「癌漫談」と言うものをこしらえて、癌をネタにした漫談を喋ります。これが受けて、一躍親父の仕事は忙しくなりました。平成3(1991)年のことです。親父は毎日うきうきして、外出着に着かえて寄席やら、パーティー会場やらに出かけて行きます。その時、親父はつくづく、「呼ばれることがうれしいんだ。金なんてどうだっていい。舞台は仕事じゃぁないもん」。と言っていました。

 私は、そんな親父を見て、「稼ぎにならなけりゃ生きて行けないじゃないか」。と、半ば軽蔑して見ていましたが、今、自分がその時の親父の年と同じになって、しかも舞台に立てない状況になって、親父が言っていた意味が分かるようになりました。何があっても舞台に立っていたいのです。

 舞台に立っていることで自分が人の役に立っていることを自覚するのです。舞台に立てない芸人は、羽をむしられた蝶やトンボと同じです。餌も手に入らず、伴侶も探せないのです。舞台に立てばこそすべてが満たされ、可能性が生まれるのです。

 親父の癌漫談はばかばかしさの極みでした。

「お医者さんから『大腸がんがどこまで進行しているか、カメラに撮ってみましょう』。と言われたんでさぁ、てっきり口からバリウムを呑んで、胃カメラを入れるのかと思ったら違うんだね。大腸の場合は、肛門からバリウムを入れて、カメラも肛門から入れるんだよ。先生が、白いバリウムを入れた大きな注射器を持って来て、肛門からバリウムを入れるんだけど、少しづつにゅるにゅる入れるんだ。これが気持ち悪いのかと思ったら案外気持ちがいいんだね。この時俺はおかまの気持ちがわかったよ。

 先生は真剣な顔で、『いいですか、バリウムが入っていますが、途中でぷっとおならをしないでくださいよ。ぷっとやると今入れたバリウムが全部出てしまって、私の顔にかかりますからね、気をつけてください』。と言うんで、『先生、そんなときには、眼鏡にワイパーつけておいたほうがいいですよ』。って教えてやったんだ」。

 実に他愛ない、ばかばかしい漫談なのですが、これが受けて、「ぜひ癌患者に聞かせてやりたい」。という病院が出て来ます。そこで親父は漫談ではなく、講演活動を始めます。

 内容は漫談と同じです。30分の漫談を2本つないで1時間にして喋るだけです。タイトルは、「なっちゃったものはしょうがない」。です。およそ世の中の役に立たなそうな講演ですが、硬い話の多い講演の中で、全編ギャグと言うのは評判がよく。あちらこちらの病院や、医療センターに招かれるようになります。それが、とんでもなく駅から離れた場所に行くこともあります。そうなると、親父一人ではどうにもなりません。

 そこで私の出番です。親父は講演の前日は必ず私の家に泊まり、翌朝、私をマネージャーに仕立てて、当時購入したてのシトロエンの3リッターエンジンを搭載したXMと言う車に乗って、出かけます。親父はXMに乗ることが最上の幸せであったらしく、車の中でいつも上機嫌です。しかも、私はマジシャンでありながら、ちょっと見た目は会社の重役然としていて、スーツを着た姿が押出しが良かったために、こうした男をマネージャーに従えてやってくる姿は、親父の優越感を満たしていたのでしょう。この構えで大病院に行き、「なっちゃったものは仕方がない」、と言う漫談をするのです。

 いつも車の中で「俺は幸せ者だなぁ」。とつぶやいていました。このころはバブル前でしたので、私もイリュージョンの仕事で忙しかったのですが、どうしても仕事が重なるときには、弟子に連れて行ってもらいましたが、大概は私が運転をしてマネージメントをしました。それは、親父の寿命がそう長くないことがわかっていましたから、少しでも一緒にいて、話を聞いてやろうと思ったからです。

 結局親父は亡くなる一週間前まで仕事をして、どうにも体が動かなくなってからあっという間に亡くなりました。亡くなる間際に私を呼び出して、「俺のものはすべてお前にやるよ、俺はもう何もいらないからな」。と言っていました。亡くなって葬式をしました。かなり盛大にやった結果が相当に費用が掛かりました。

 「そう言えば、親父は、晩年に少し稼いだんだから、多少なりとも蓄えがあったはずだ」。と思い、親父の銀行口座を調べたところ、4000円しかありませんでした、私をわざわざ呼んで、「俺のものはすべてお前のものだ」と言った答えが4000円でした。母親いわく、「少しギャラが入ると、競馬とパチンコをして、結局使っちゃったんだよ」。

 芸人として生きて、借金もせず、さりとて貯金もなく、4000円で全て済ませた親父は、見ようによっては幸せな芸人でした。但しバブルが弾けた後で、仕事も金ものなくなった私は、その後親父の葬式代で随分苦労しました。

 でも収入のことなど考えず、ひたすら舞台に出たがった親父の心はよく理解できます。そうありたいと思い、明日、明後日の舞台に挑みます。

続く