手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ご近所の話 3 環7

 昨日は、糖尿病の数値がよくなって、先生からも褒められました。先ず、酒をほとんど飲まないのがよく、穀類を半分に抑えているのがよく、脂ぎった肉を食べずに、魚や、野菜を多くとっているのが良いと思います。女房の協力があればこそで、自分一人で生活していたなら、ビールに焼肉を連日食べていたでしょう。

 何にしても一日1800カロリーで生きて行かなければいけません。簡単ではありません。かつ丼やカレーを食べたなら、一食で1000カロリーあります。ハンバーガーのビックマックなどは1200カロリーあります。あれ一つ食べてしまうと、後の二食は、もやしとキャベツと胡瓜を生で食べるような食事をしなければなりません。生野菜ばかり食べていると、背中から羽が生えて来ます。知らずのうちに、スイッチョスイッチョなどと言って鳴くようになります。何とも侘しい生活です。

 カロリーを落として生活すると、手足が細ります。然し、ウエストはあまり痩せません。ある程度の年齢になると、ウエストは痩せないのだそうです。腹が出てて、手足の筋肉が細って行きます。どうもあまり格好良くない体系になります。しかし致し方ありません。無事に生きているだけでも感謝です。

 

環7

 私の家の前の環7のお話をしましょう。環7とは、環状7号線の略称です。この道は昭和39年に作られました。然し、それは全体の3分の1ほどで、すぐに環状線にはなりませんでした。それでもできた当初は、片側3車線の立派な道路で、しかも、交差する道は全て立体交差になっています。私は小学校4年生の時(昭和39年)に、社会科見学で、この環7をバスで通りました。それは驚きの世界でした。

 小学校に上がった頃見た絵本の世界がそこにはあったのです。絵本では、道路が立体交差していて、下に新幹線(だったかどうか記憶がありません。小田急ロマンスカーだったかもしれません)。上にモノレールが走っていました。それは全く鉄腕アトムの世界そのもので、未来の国を描いたものだと思っていました。然しそれが数年のうちに、全てが現実になったのです。新幹線も、モノレールも、そして環7でした。

 私が小学生の頃はまだ東京も車が少なく、環7は広さを持て余すかのように閑散としていたのを記憶しています。その時に国会議事堂、国立競技場、東京タワーを見ました。秋にはオリンピックが始まろうとしていた時期でした。東京中がまるで工事現場で、ごちゃごちゃ。でも、何もかも新しくなろうとしていました。

 環7は都心に集中する車を、バイパスを作って迂回するために作られたものと考えられます。実際その後、環7を通る車のほとんどが大型トラックで、国内輸送のための幹線道路になりました。今は高速道路が整備されて、都内をトラックが走ることは少なくなりましたが、私が杉並に越してきたころはトラックがたくさん走っていました。

 杉並区には、環7と環8(かんぱち)の二つの環状道路があります。環8は杉並区の西の端を通っています。環8は、23区の端を縁取りするように拵えたものです。そうなら、環7は何のために高円寺を通るのかと考えると、戦前の東京市の区域と、外の郡部の地域の境目に拵えたのではないかと思います。

 

 東京23区の地図を広げてごらんになればおわかりと思いますが、明治大正の時期から東京市だった地域の区は小さいのです。文京区も、台東区も、新宿区も、サイズは杉並区や、世田谷区の半分もありません。なぜそうもサイズが違うのかというと、本来の東京市が小さかったのです。杉並も世田谷も昭和17年までは郡部だったのです。当時は杉並という地名はなく、豊島郡高円寺町でした。私が子供のころ住んでいた池上は、大田区池上ですが、昔は荏原郡池上町です。

 国木田独歩の武蔵野を読むと、武蔵野とはどこかと思っていたら、明治の中頃の渋谷村と出て来ます。当時渋谷は村で、一帯が林だったと書かれています。すなわち渋谷一帯は林に覆われ、そこが武蔵野だったわけです。春の小川と言う唱歌の、小川とはどこかと言うと、渋谷を流れている細い川のことで、それを見た高野辰之がこの詩を作ったそうです。共に明治の話です。

 本来小さかった東京市がなぜ大きくなって行ったのかと言うと、関東大震災の影響です。何十万人もの死者を出した震災から、中心街の密集した地域に住んでいることがいかに危険かを知り、大正末期から昭和初年にかけて郡部に引っ越す人が増えたのです。それに伴って私鉄が作られるようになり、郡部に小田急線、京王線東急線などが出来て行って、人口が急激に膨らんで行きました。

 話を戻して、この古い東京市の区域と、郡部を仕分けるために環7は作られたのではないかと思います。オリンピックの頃なら、環7を挟んで西と東でははっきり人口も違っていたはずです。まだ田んぼや畑や空き地も結構あったはずです。

 

 因みに、環7、環8があるなら、環1、環2があってもよさそうです。実はあるのです。関東大震災の際、最大の災害は火災だったのです。火の手を抑えるために、東京に環状道路を何重も作り、広い道路で大火を抑えようと考えたのです。

 環1は内堀通です。江戸城に沿ってぐるり一周しています。よくジョギングをしている人がいる通りです。環2は、外堀通りです。江戸城の外郭で、西は四谷の駅前を南北に抜ける広い道で、東は、有楽町の交差点を南北に通っています。北は水道橋の当たりを総武線に沿って走っています。南は溜池通り。

 環3は、これが失敗作です。環にしたかったのですが、用地買収をしているうちに、どんどん被災者が引っ越してきて、家を建ててしまったものですから、道はズタズタになってしまいました。北は、不忍通りと呼ばれている道が環3です。上野の山の裏から根津へ抜けて、根津神社の当たりが北の端です。根津から南下して青山近辺の外苑東通りにつなごうとしたのです。然し、外苑東と不忍通りは全くつながっていません。ところどころその残骸の道が残っています。小石川植物園の前に意味もなく広く短い道がありますが、あれが環3の残骸です。私の子供の頃からずっと無用の長物です。用地買収がままならず、役人が投げてしまったのでしょう。この先もつながらないでしょう。

 環4は外苑西通り、これもあってもなくてもどうでもいいような環状道路です。全く環になろうと言う気持ちが見られません。環5は明治通り、これはいい道です。環状にもなっています。環6は山の手通り、ここは長い事、恵比寿あたりで道路工事していましたが、ようやく環状になりました。そして環7、環8です。

 私は子供のころから舞台の仕事をしていて、あっちこっちに出かけていましたので、東京の道は全てわかります。その中で私の好きな道を明日お話ししましょう。

続く