手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 8

 一蝶斎を書こうと思いつつ、世間のコロナウイルスに対するバカ騒ぎを見ていると、ついつい「くだらないことはやめろ」。と、言いたくなって、一蝶斎の話が中断してしまいます。コロナに関しては書きたいことがたくさんありますが、それはまた今度にして、今日は何としても一蝶斎の話を進めます。

 

千羽蝶の考案

 一羽の蝶が飛び、やがて伴侶を見つけ、二羽は仲睦まじく舞い遊び、やがて千羽の蝶となって舞台一面乱舞する。これは実に明快なストーリーで、しかも、無常観を良く表しています。無常観と言うと、「驕れる人も久しからず、ひとえに風の前の塵に同じ」。と言うように、栄えたものが滅びて行く姿を語りがちですが、一蝶斎は滅びを語らず、「子孫繁栄、千羽の蝶」。と、ストーリーを恒久の連動に繋げました。

 これは鴨長明(かものちょうめい)が、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。と、自らの随筆の書き出しに語ったように、水の流れは見た目には何も変わってはいないが、その水一滴一滴は同じものではない。同じ水、同じ川ではなく、水は変わり続けている。と、鴨長明は気づいたのです。そこから世の中の大きな流れを知り、無常を感じ取ったのです。

 一蝶斎は、毎年、毎年、蝶は生まれて死んでゆくが、死んで行くことが終わりではない。親の蝶の死によって、次の子孫が生まれて行き、それが、新たな始まりである。すなわち無常観なのだと気付いたのです。終わりが終わりではなく、始まりが始まりではないのです。

 一羽から二羽になり、二羽から千羽になったと言うのは、数の変化ではありません。一羽の蝶は、単純に情景を語るだけの芸でした。それが二羽になったことで、夫婦の愛を語る芸の変わったのです。つまりここで、蝶を人間に見立てて、人の営みを語り始めたのです。更に、それが千羽を加えることで無常観、哲学にに昇華したのです。

 見事な発想です。こんなに深く人間を語るマジックは見たことがありません。さて、千羽蝶はいつ考えたのでしょう。研究家の中では一蝶斎の晩年と言う人もありますが、私は相当に早かったのではないかと思います。それは、例えば、一蝶斎の人気にあやかって、天保2(1832)年、柳亭種彦が書いた、「富士の裾浮かれの蝶衛(衛の文字の真ん中が鳥になった文字、そのままフリガナがちょうとりとかかれています)」

 この本の挿絵には千羽の蝶があしらわれていて、既に従来の蝶の芸と千羽蝶はセットになっていたと思われます。そうなら、天保2年の数年前、一蝶斎が30代の中ごろか、末ごろには千羽蝶は完成していたことになります。つまり一蝶斎は、文政2(1819)年に、谷川定吉から蝶を習い、それから恐らく10年のうちに、二羽蝶を考え、千羽蝶を取り入れたことになります。この一蝶斎の工夫こそが、彼の名前を大きくし、江戸随一の手妻師になった理由と思われます。

 

 然し、私は、前に、それまでも蝶のお終いに紙吹雪を飛ばしていたと申し上げました。その時の終わり方は資料が残ってはいませんが、飛んでいた蝶をつまみ、「折から来たる強風に煽られ、吉野の山の散り桜とともに、蝶は風に舞い、飛び去ります」。等と言った口上で余韻を残して終わったのではないかと思います。これですと、蝶は思い半ばで風に煽られて消えて行きます。

 一蝶斎は、これを、「雄蝶、雌蝶小手にもみ込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わる」。と言って、終わらせています。(口上は少し違うかも知れません)。これは言葉を変えて、散り桜を千羽に変えたわけですが、実は吹雪を千羽蝶に言い換えるのは、簡単なようで簡単ではありません。

 なぜなら、まず蝶のサイズが違いすぎます。初めに飛んでいた蝶のサイズと、花吹雪を散らすサイズはサイズが違います。子供の蝶だから小さくてもいいと言うのも違います。そもそも子供の蝶と言うのはありません。蝶として飛んでいるならすべて大人の蝶なのです。蝶の子供は青虫です。

 良くプロの方の中にも、千羽蝶を千羽胡蝶と語る人があります。そして、胡蝶を子供の蝶と勘違いされる方がありますが、それは違います。

 ちなみに蝶の芸を胡蝶と言うのも間違いです。良く、私が蝶を演じるときに、事務所のマネージャーさんなどが、訳知りに、「胡蝶の芸はいいですねぇ」。等と言って褒めてくださいますが、蝶と胡蝶は別物です。

 胡蝶の胡は、古い中国では、外来品を指します。胡椒(こしょう)、胡瓜(きゅうり)、胡坐(あぐら)、などがそれで、古くに中国に伝わった、ペルシャあたりの品物や、風習に胡の字をつけたのです。

 そうなら、胡蝶とは何かといえば、季節風に乗って、西の砂漠の方から飛んでくる蝶を指します。それらの多くは極彩色で、いわゆる日本で言う揚羽蝶のことです。雅楽で、胡蝶楽(こちょうがく)と言う舞曲がありますが、この時、舞踊家が着る衣装は極彩色です。中国からの影響を受けた雅楽ですから、胡蝶と名が付けば極彩色の衣装を着るのでしょう。

 これと一蝶斎の飛ばす蝶とは違います。一蝶斎の飛ばす蝶は、白い紙で小さな蝶を作ります。すなわち紋白蝶です。これは遠くの砂漠から飛んでくる蝶ではなく、中国でも、日常どこにもいる蝶です。これは蝶です。従って、一蝶斎や、鈴川の流れを継ぐ蝶の演じ手は、蝶の一曲、浮かれの蝶と言って、胡蝶とは言いません。

 もう少し話を掘り下げて、そうならなぜ、蝶の演技を胡蝶と呼ぶ人があるのかと言うと、実は、三代目養老瀧五郎が、晩年に大阪の一陽斎正一に蝶の演技を譲っています。大正時代のことです。一陽斎は西洋手品を演じていたのですが、なぜかは知りませんが、蝶を習います。習い覚えた一陽斎は、自分の流派の芸であると宣言するために、胡蝶楽から名前を取って「胡蝶の舞」と名付けました。これが蝶の芸を胡蝶と呼ぶ原因になったと考えます。

 但し、一陽斎が無知だったからそんな名前にしたというわけでもないようです。一陽気斎の演じる蝶ははがきを半分に折ったくらいに大きなもので、しかも、色紙を使ったと言う話を聞きます。色が付いていて、大きな蝶なら、揚羽蝶と言えなくもありません。そうならあながち間違いのネーミングでもないと言えます。

 古い文献にも、胡蝶の文字が見えますが、それも揚羽蝶のような色のついた蝶を飛ばしたから胡蝶を名乗ったのでしょう。いづれも柳川の蝶とは別物です。

 何となく、蝶を胡蝶と呼ぶと学問のありそうな人に見えるからか、胡蝶の名前を使う人がいますが、それは間違いです。特に、蝶の演じ手は名称に気を付けてください。そこに時代の背景が隠されているからです。歴史に沿わなければ古典ではないのです。

次回は千羽蝶をもう少し詳しくお話ししましょう。

続く