手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 7

 昨日は幸いよく眠れました。大阪で指導をした後、少し疲労を感じましたので、いつものように、あちこち挨拶に寄らずに、すぐ東京に帰ったのが良かったようです。

 今日は、昼と夜にお稽古に来る方が3人あります。東京のレッスンは毎週火曜日か水曜日に集中させています。明日は前田の稽古があります。前田は毎週一回、朝9時から2時間指導します。週末土曜日には玉ひででの舞台があります。

 玉ひでは、お客様も定着し、間近く芸が見られることで評判がいいようです。親子丼と、鳥の料理がついて、5500円です。人数制限がございますので、当日入場できない場合があります。事前予約をお願いします。(食事なしですと2500円です)

東京イリュージョン、03-5378-2882

 

 こんな風に日々用事をしているうちに、三月、半年はすぐに過ぎて行きます。でも、この生活を繰り返しても、自身の向上がありません。もっと自分自身を変えて行くために時間を使わなければいけません。今日は間の時間を使って、自分の使っている道具を見直してみようと思います。こうした時間も楽しいものです。

 

一蝶斎の風景 7

 金で身分が買えると言うことは、完全に身分制度が破綻していると言うことです。公家に限らず、地方の大名の家来でも、旗本でも御家人でも、株を買って侍になることは金さえあればできました。大概の侍の家は、親代々の借金で、禄は金貸しに右から左に渡り、他に収入の当てがないので身動きが出来ず、その末裔は継ぐべきものがありませんでした。

 やむなく屋敷をやくざ者に貸して、やくざ者はそこで博打を開帳します。やくざが博打をしているのは町方同心も知っていますが、武家屋敷に踏み込むことはできません。武士は治外法権です。当の侍家族は、屋敷内の、元家来の住んでいた粗末な家に暮らしています。地位があべこべになっています。

 公家も同じでした。収入の道がないために、位を金に換えて、あちこちの金持ちに売り歩きます。芸人でも実力のある芸人などはこぞって位を買いました。それは、芸人であることで、いわれなき差別を受けることを避けるためです。実際に興行をしていると、強請(ゆす)り集(たか)りが頻繁にやってきます。そうした連中にしつこく嫌がらせをされることでこれまでもずいぶん苦労しました。然し、官位を手に入れれば、公家になれます。そうすれば公事方が取り締まってくれます。町方同心に訴えればよさそうなものですが、実は、町方同心こそ強請り集りの仲間ですからどうにもなりません。そこで自らが公事方の所属になって、公事方に訴えればたちまち問題は解決です。無論謝礼は必要ですが、強請り集りから解放されるだけでも大きな効果です。

 一蝶斎は官位を、江戸で既に買っていたと思います。その上でこの度、公家に挨拶に出かけたのでしょう。これで晴れて、一蝶斎は、柳川豊後大掾藤原清高となりました。然し、旅の間は名前は伏せておいて、江戸に帰って、還暦の披露をした時にお披露目しようと考えたようです。

 

 大坂は、難波新地と言う、相撲興行が開かれる大きな空き地に、ひときわ大きな小屋を作り、ひと月以上興行したようです。人気は上々で、大入りが続きます。江戸を離れてしまえば、水野の倹約令など誰も守りません。上方の庶民は、全く文化文政時代の儘の派手な生活を享受しています。

 さて、大坂を終えた後は西国の興行です。恐らく四国の金毘羅芝居には出たと思います。金毘羅さんは大坂の庶民にとっては最も人気のある旅行先で、道頓堀に船着き場があって、そこから多度津の港まで、丸に金と書かれた帆掛け船が連日出航しています。多度津からは荷物を馬に載せて、平野を歩いて金毘羅さんまで行きます。金毘羅芝居は常設の芝居小屋で、周囲は参詣客を相手に飲食店や旅籠がひしめいています。ここもひと月以上の興行をしたのでしょう。

 

 一方、水野の改革は失敗が続き、天保14年に水野は失脚します。一蝶斎は、水野の失脚を喜び、一刻も早く江戸に帰ることを望みます。然しその後の契約がずっと続いています。予定の興行を全て済ませた後、一路江戸に戻ります。天保は終わり、弘化と言う時代になっていました。

 あちこち回って、天保15年九月に安芸の宮島にある厳島神社に行きます。移動は全て舟です。ここには常設で大きな芝居小屋があります。何分、宮島は小さな島ですので、参拝客は小舟で宮島まで行き、神社に参拝した後、旅籠に泊まって宴会をするまでの間、どこにも行き場がありません。多くは芝居小屋に入って来て、半日芸能を楽しんだのでしょう。当然ここも大当たりだったでしょう。

 宮島の芝居と、大分の柞原八幡は通常つなげて興行したようですから、宮島の後は豊後の柞原八幡まで行って興行したと思います。恐らく柞原は正月興行と思われます。

 

 江戸に戻ったのは弘化2(1845)年でしょうか。戻ってみると、虐げられていた天保時代とは打って変わって、江戸の繁栄は復活していました。改革で、200件以上あった寄席がみんな廃業したものが、たちまちあちこちに寄席が出来て、以前より増えています。一蝶斎は旅で稼いだ金を襲名披露にかけて、盛大な興行を企画します。

 

豊後大掾襲名披露

 弘化4(1847)年、浅草奥山の小屋掛け興行で、3月18日から、柳川一蝶斎の豊後大掾襲名披露と、倅(養子)、二代目柳川一蝶斎の襲名披露を行いました。浅草寺の御開帳と重ね合わせての興行ですから、連日大入りです。

 内容が、凝りに凝ったもので、小幡小平治蒸籠抜けなどと言う、箱から抜け出たり入ったりの大道具にストーリーをつけて演じたり、浦島の物語をストーリーに沿って演じ、乙姫を倅、二代目一蝶斎が演じ、浦島を豊後大掾が扮して、竜宮城の景を見せ、玉手箱を、からくり細工の蛸(亀ではなく蛸)が、舞台袖から機械の音をさせつつ持って来て、玉手箱をあけると、煙がもうもうと上がり、豊後大掾は消え失せます。そして、迫舞台(せりぶたい、床下から自動で競り上がって来ます)に乗って出て来ると、衣装がそっくり変わっていて、口上が始まり、そこから蝶の一曲が始まると言う趣向です。

 一蝶斎はこの日のためにぜいたくな着物をたくさん作り、派手な舞台ごしらえをしました。それが江戸中の話題になり、浮世絵が襲名披露の様子を何枚も描き出しました。

 手妻師が浮世絵になることは過去にもあったのですが、何枚も絵草子屋が競うように浮世絵を出すのは珍しいことです。一蝶斎絶頂の時です。

 この後、関東近辺の祭礼など数年にわたって回り、相当にいい稼ぎをしたようです。

続く