手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 6

 7月19日、大阪のホテルにいます。昼に、名古屋で指導をして、先ほど大阪につきました。明日は大阪の指導です。少し体調がいいので、明日のためのブログを書きます。

 

天保の改革、西国の旅

 天保12年の水野忠邦の改革は度を超えたものでした。江戸の街中の寄席はどんどん閉鎖され、芝居小屋は当時湿地帯だった浅草猿若町に全て移転になり、贅沢品の類は、街中で役人や岡っ引きが衣類を改めて、少しでも違反していると婦女子でも身ぐるみはがされました。役者は素面で街を歩くことを許されず、必ず編み笠をかぶって外出するようにと命じられます。これでは罪人扱いです。町全体が密告社会になり、一度密告されれば容赦なくひっくくられて罰を受けます。

 しかしこれは200年前の社会のことだとは言えません。今でも似たようなものです。コロナウイルスで、誰もかれもマスクをさせられ、マスクをしていないとみんなからにらまれます。劇場が、消毒などを少しでも怠ったり、舞台と客席が近かったりすると、ネットにすぐさま公表して劇場を叩きます。それらを監視するのは役所ではなく、頼んでもいない庶民の目です。鵜の目鷹の目で人のミスを暴き出して、正義を盾に騒ぎます。衛生から身を守ることは表向き、その実他人を監視して、非を見つけて騒ぎます。正義を持った人の暴力です。社会がどんどん暗くなって行きます。

 

 一蝶斎はそんな江戸に嫌気がさして、天保13年、初夏に江戸を離れます。一蝶斎のこの時の旅興行は、わかっているだけでも、天保13(1842)年、7月29日からの名古屋大須での興行。天保14(1843)年、大坂難波(今の難波の高島屋の裏あたり)での興行。天保15(1844)年、芸州(広島県)宮島芝居での興行。

 それぞれ1っか月以上は興行したと思います。しかも、このほかにも、例えば、名古屋に出たなら、近隣都市の祭礼を持っている興行師が見に来て、すぐにすぐさま契約が決まって行ったでしょう。小さな祭礼では、とても直接江戸から芸人を呼ぶことはできませんので、こうした機会を生かしてすぐさま日程を決めて行ったと考えます。

 

苦労の荷物輸送、

 ところで、一蝶斎の大道具は、恐らく2トンから3トンあったと思います。これらはどう運んだのかと言うと、恐らく、江戸から尾張の熱田までは船便で運んだものと思います。熱田からは川舟を雇い、大須に近くまで運び、そこから馬で大須観音前まで運んだと思います。一方、人は、東海道を旅して、名古屋に入ったものと思います。春、秋は大名行列が多いため、東海道は旅籠(はたご、旅館のこと)が取れません。また秋は台風などが来て、東海道の川は通行止めになるので、中山道を使います。然しこの度は、初夏の旅ですので、東海道を歩いたと思われます。

 大須観音は、江戸で言う、浅草によく似た地域で、境内に、びっしり芝居小屋が並んでいます。興行の規模からすると、江戸、大坂、京に続いて名古屋は大きな繁華街です。どれほどの規模の小屋を建てたかはわかりませんが、少なくとも300や400入る芝居小屋を建てたのではないかと思われます。それにしても8月の興行は、熱さで人が集まらないと聞きますが、よくこの時期、名古屋で興行したものだと思います。

 この先、近隣の神社の境内などにある半常設の舞台を回ったようです。想像ですが、川舟と馬を乗り継いで、伊勢あたりまで行ったのではないかと思います。当時の馬は、小型でしたから、荷物を乗せられる量は、米俵三俵(俵一票は60キロ、一石は二俵半、150キロ)が精いっぱいです。すなわちこれが一馬力です。3トンの荷物であれば、馬を20頭借りなければなりません。地方の町では話題に乏しいものですから、江戸から20頭もの馬を引き連れて芸人が来たとあっては、町は大騒ぎです。

 一座は、町に近づくと、旅籠(はたご)を借りて、そこで全員が揃いの柳川と書いた法被(はっぴ)を着て、馬の荷物には、派手な幕を飾り、荷物には、幟(のぼり)を立てて、そこに、「東都大手妻師、柳川一蝶斎」などと書かれた幟を飾って、三味線、囃子方は大八車に乗せて、「四丁目(しちょうめ)」や「たけす」などと言った派手な囃子を演奏しながら町に入ります。町の辻々に来ると、馬を止めて、囃子は、「辻うち」に変わり、そこへ番頭が出て来て、江戸から来た手妻師の一行であると口上を述べます。江戸言葉をあまり聞き慣れていない町の人にはそれだけで効果は十分です。そして、チラシを配ると、人は争ってチラシを求めます。馬の周りには近所の子供たちがびっしり集まって、一座の行列にぞろぞろついてきます。

 伊勢あたりの興行を終えると、荷物は船に乗せ、大坂へ送ります。座員は歩いて大坂まで入ります。大坂は翌年(天保14年)春の興行ですので、かなり名古屋との間に時間がありますので、ひょっとすると、京に行き、京で先に興行したのかもしれません。大坂から京に行くのは今ではあっという間に行けますが、江戸時代は簡単ではありません。淀川を遡って行かなければなりませんので、船が進む時間は下りの三倍、費用も三倍かかります。下り船なら、竿や櫓をこいで半日で京から大坂に行けますが、上りは、川に逆らって進むため、岸から馬や牛で船を曳いて進みます。時に、険しい流れの所では人足が何人も出て舟を引くために経費と時間がかかります。このため、上りの旅は、荷物は船で、座員には小遣いを与えて歩いて京に向かわせるのが常でした。

 さて京の興行は、四条当たりの小屋掛けと思われます。ここで興行しつつ、実は、一蝶斎には、もう一つ、京で用事がありました。それは官位を受けることです。

 一蝶斎は、江戸にいるときに、官位を与えてもよいと言う誘いを受けます。江戸には嵯峨御所という、今日の出張機関があり、そこにいる公家が、江戸で、稼ぎのいい、商人、職人、芸人を見つけると、官位を売りつけたのです。京の公家は生活が苦しく、生活維持のために、官位の許可状を発行していたのです。これはあらゆる分野に及び、

 例えば、商店では、店の名前に堂の字が付くのは官位を得なければ名乗れません。亀屋万年堂と言うお菓子屋さんがありますが、亀谷を名乗ること按摩や、琴、三味線の師匠になる権利が与えられています。また、金貸しの権利も認められています。盲人は、琴の稽古などをつけて細かく稼ぎ、それを人に貸して利益を作り、その中から、せっせと公家に献金をして、身分を買います。別当、座頭などと言うのが官位の名称で、映画の座頭市と言うのは、座頭と言う位を持った市さんという意味です。金がなければ座頭市にもなれません。最高位は検校と言う位で、検校は全く大名と同格です。町で役人に会っても、検校は役人が捕まえたりはできません。身分が違うのです。

 一蝶斎は、身分を手に入れることにしたのです。恐らくその理由は、天保の改革で、役人や、岡っ引きが嫌がらせをするための対策だったのだろうと思います。

 芸人に与えられる、官位は、掾、大掾などです。これに国名が乗ります。山城大掾(やましろだいじょう)であるとか、豊後大掾などと言う名称になります。聞くだけで立派な身分に思えますが、公家の中では最下層に近く、大したものではありません。そんなどうでもいいような身分を勿体ぶって、庶民に売って、公家は暮らしていたのです。次回詳しくそのあたりをお話ししましょう。

続く