手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

十牛図 5

 今週末は神田明神ですが、非常事態は解放されたとはいえ、人はおいそれとは遊びに出ません。どこの劇場も集客には苦労しています。「人を集めすぎてはいけない」。のだそうです。客席を2m以上お客様の感覚をあけろと言います。そんな必要がどこにあるのでしょう。

 山手線や中央線は2m置きに人が乗っていますか。一車両に50人以上乗せてはいけないと言う決まりを作っていますか。JRがそんなことをしていないのに、なぜ我々のようなささやかな芸能の公演に厳格な規定を求めますか。JRが手本を示せないなら、2mの間隔なんて嘘ではありませんか。

 勿論、劇場の空席分を東京都や、国が買い取ってくれるなら、公演も成り立ちますが、そんな話はついぞ起こりません。役所は平気で人の生活に入り込んできて、責任を取りもしないで要請を求めます。要請なら断ってもいいのかと言うと、それは要請ではなく、強制なのです。

 強制をしておいて、その生活の保障は一切面倒を見ません。それで我々はどうやって生きて行ったらいいのでしょう。なぜ人はコロナウイルで我々に犠牲を求めるのでしょう。こんなばかばかしいことをいつまで続けるのでしょう。

 

十牛図 5

6、騎牛帰家(きぎゅうきか)

 もう自在に牛を操れるようになった少年は、牛の背中に乗って、笛を吹いて、帰宅の道を進んでいます。心に何の悩みもありません。然し、牛が自分自身であるなら、自分が自分を使いこなせるのは当たり前のことです。あれこれ牛を捜し歩いて、それが自分自身であったことに気付いたときに、今までしてきたことは、何も知らなかった少年の自分に戻っただけだったと気付きます。

 

 マジックで言うなら、必死で色々なマジックを学んで、道具を集め、これで大きな仕事ができるようになると胸膨らませている時に、人の求めているものは道具ではなく、マジックですらなく、その人自身の魅力だと知った時に、愕然とします。物を追い求めて、物を手に入れた時に、物は不要と知り、全く無一物で、うろうろしていた少年時代の姿こそ正しき姿であったことに気付きます。

 マジシャンはここで自分自身を見つめます。旧作を見直したり、基礎マジックをさらに改良したりして、マジックそのものと真摯に向き合うようになります。そして、時にオリジナルを考えるようになります。

 若いころのオリジナルは、どうにかなりたい一心で、見せびらかしに近い活動をしがちです。これは実はほとんど自分の役には立ちません。オリジナルと言うのは、自分が何者かかがわかった上でないと役に立たないのです。

 自分と言うものがわかってからのオリジナルは、よりマジックの作品を自分自身に近づけます。心と演技が一体になった時に、自身の芸能は輝きだすのです。

 

 天一は、帰天斎の大道具や、一登久の水芸を入手して、意気揚々と劇場進出しますが、これだけでは大舞台に立てないことを知ります。よく考えてみれば、大道具が本当に重要なものなら、帰天斎は決して名もない大阪の奇術師に道具は売らなかったでしょうし、一登久も自分のオリジナル水芸をそうやすやすとは手放さなかったはずです。

 彼らがなぜ道具を手放したのかと言えば、彼らには喋りの武器があり、舞台人としての花が備わっていたからでしょう。彼ら自身は、自分の芸が道具だけで観客に受けているわけではないことを知っていたのです。

 それを天一は、道具さえあれば成功すると信じて大借金をして大道具を手に入れたのです。それは、己が何者かを知らなかったのです。天一はいいカモだったのです。

 一方、一登久は、帰天斎の奇術が際物であることを見抜きます。こんな芸人が東京で一流扱いされるなら、自分が東京に出たなら必ずや人気を独占できると自負して東京進出を考えます。但し、東京に出るためには費用が必要です。どうしたものかと悩んでいると、天一から水芸装置を譲り受けたいと話を持ち掛けられます。これ幸いと一登久は新規に水芸を作り、旧作を天一に売り、明治15年に東京進出を図ります。

 当の天一は、ここで自分自身と向き合います。自分の魅力とは何かを真剣に考えます。やがて、ストーリーを作ってマジックを演じることを思いつきます。箱に入った女性に剣を刺すにも、なぜ女性は剣を刺されるのか、そこにストーリーが語られます。そうすることで観客に共感を求めます。天一の舞台は、一つのマジックが、ただ剣を刺すなら3分か4分に過ぎないものを、いくつかのマジックを合わせてストーリーを作ることで20分、30分と言う作品に仕上げます。この天一の発想は天一の舞台を大きくします。

 

7、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)

 ここにはもう牛はいません。粗末な家の中に、中年の牛飼いが一人座っているだけです。牛を飼い慣らすための紐も、鞭も、もう外に放ってあります。牛は自分自身であることに気付いたため、もう描く必要はないのです。そこで初めて悟りの境地に至ります。

 

 ここまでくると、日本では数人と言うくらいの高名なマジシャンになっています。マジックを演じなくてもそこにいるだけで、存在がマジシャンです。しかし当人は、内心、心休まるときがありません。それは、頂点に立って、初めて他の社会が見えてきたからです。マジック界でトップであっても、マジック界そのものがトップの社会ではないことに気が付きます。他のジャンルのトップが、飛んでもない苦労をしている姿を見ると、自分のしていることの未熟に気付きます。

 マジック界を今以上に引き上げるには、他のジャンルの実力者ともっともっと付き合いを密にしなければならないことを痛感します。

 

 天一は、苦悩の末に明治20(1888)年に東京進出を果たします。練りに練った番組構成によって、東京の観客は熱狂します。一躍東京一のマジシャンになります。皇族や、政治家などとの交流もでき、大きな仕事が次々に舞い込んできます。

 翌年には支那(中国)に渡り、北京と上海で興行します。上海には、李鴻章が見に来て、その技量に感嘆し、天一漢詩を送ります。

 明治15年に東京に進出した中村一登久は当時東京一の人気を博しましたが、明治20年天一が大阪からやって来ると、人気は徐々に天一に移って行きます。

 帰天斎正一は、元々寄席の芸人でしたから、大阪の興行以降は一座を畳み、もっぱら寄席に戻って出演するようになり、大道具は演じなくなります。

ここから天一の活動は独走してゆくことになり、快進撃が続きます。

続く