手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

舞台活動開始 天一と水芸

 先週12日、金曜日が神田明神、13日、土曜日が玉ひで、共に小さな舞台でしたが、明日は名古屋で水芸をいたします。そのため、朝から大道具を出して、荷物を組んでいます。こうした仕事はいつものことではありますが、コロナウイルスが間に入ったために久しぶりの水芸出動です。本来なら、夏に向かう時期ですので、水芸がもっともっと動かなければいけません。今日、荷物が先乗りして昼過ぎに名古屋に向かいます。

 私と女性アシスタントは明日、新幹線で名古屋に向かいます。私は明晩に舞台をして、最終新幹線でそのまま東京に戻ります。仕事はいつもハードですけど、こうした活動をすると、充実した人生を送っていると実感します。

 来週は再度、24日の12時から神田明神で公演します。観覧ご希望の方がいらっしゃったら東京イリュージョンまでお申し込みください。5378-2882

 24日の神田が済みますと、25日富士、26日名古屋、27日大阪の指導に行きます。いつもの3日間の指導です。指導もようやく再開です。東京の指導など合わせますと、月に10日以上仕事がありますから、まずまずの活動です。

 

天一と水芸

 和歌山で無謀な火渡りをしたことで大怪我をした天一は、火傷の足を引きずりつつ大阪に向かいます。それまで得意の絶頂だった天一が人生で初めて味わった挫折感だったでしょう。10代で一座を持って、剣渡りで当たり、座員を抱え、女房まで持って稼いでいた天一が、火渡りを失敗したことで、財産を失い、女房は呆れ返って逃げ出し、座員は見切りをつけてやめて行き、体は火傷で剣渡りもできず、かろうじて生きているだけの身になって、大阪に向かう旅は惨めなものだったはずです。

 天一が19歳から25歳くらいまで、何をして生きていたのかは謎です。当人もこの時代のことは話したがりません。人に言えない惨めな生活をしていたのかもしれません。確実なことは、このころ、これまで我流で奇術をしていたことを反省し、優れた師匠を探していたようです。

 大阪には大物の手妻の師匠が何人もいたのですが、弟子入りを申し込むとあっさりと断られたようです。天一がまだ海のものとも山のものともわからないのですから断られるのは当然です。あちこち訪ね歩くうち、天一は当時流行していた水芸に興味を持ちます。水芸の大看板だけでも、養老瀧五郎(この時期に瀧翁斎を襲名し、大阪の水芸界の大幹部)、吉田菊五郎(この時期はまだ菊丸)、早竹虎吉(曲独楽の水芸)など何派もあって、その技を競っていました。

 ところが天一は、大物の手妻師からは相手にしてもらえず、やむなく音羽某と言う師匠につきます。この師匠のことを天一は詳しく話そうとはしません。よほど弟子のときに辛い目に合ったのか、或いは、あまり大した師匠ではなかったのか、詳しいことは分かりませんが、今となっては、屋号が音羽と言うことだけで、名前すらも分かってはいません。弟子としてみた時にこれは不実だと思います。

 

 何であるにせよ、この時の天一の修行は天一を大きくしました。それまで誰からも奇術を習わず、舞台のことも楽屋のことも何一つ学んでいなかった天一は、この時初めて、学ぶことの大切さを知ります。

 恐らく弟子に入ると、初めはとるに足らない、簡単な奇術から習うことになると思います。半年前までの天一だったら、「そんなことは知っている」。と、小ばかにして、まともに習おうとはしなかったでしょう。

 然し、この時の天一は、芸に自信をなくし、しかもどこの師匠にも入門を断られ、藁にも縋る想いで音羽師匠に弟子入りしたわけです。人間が最も弱気になっているときに、心を素直にして、技を学ぶと、技の有難みをしみじみと感じます。よく知っている奇術でも、再度習いなおすと、今まで考えてもいなかった部分に工夫が見え、新たな発見をします。なぜここに気付かなかったかと、目から鱗の連続になります。

 こうして初めて、天一は芸と向かい合います。

 

 水芸を一つの道具と考えるのは間違いです。水芸は実に多くの要素を取り入れて、今日の形を作っています。湯呑から吹き上がる水と刀の刃の中央から吹き上がる水は仕掛けが違います。太夫の持つ扇子の先から出る水は全く違う仕掛けです。後見が頭の先から水を噴き上げるのは、また仕掛けが違います。お終いにたくさんの水が吹き上がるのはまた仕掛けが違うのです。それぞれがある時代に考案され、それらが大阪で一つにまとめられて今日の水芸が出来ています。

 これらのからくりをひとまとめにしたのは、養老瀧五郎です。瀧五郎は、元々は江戸の手妻師で、江戸では蝶を飛ばし、剣渡りを得意にしていました。安政の大地震の頃に大阪に渡り、大阪で活動を始めます。その際、年齢のこともあり、剣渡りをやめて、水芸を看板にするようになります。看板芸となると、従来の、一本か二本、水が吹き上がる芸では観客は納得しません。水の出る個所を増やし、より不思議な出方をするように改良して、今日の水芸の原型を作り上げます。これによって、大阪では水芸が流行り出し、幕末から、明治30年代くらいまで、水芸は、手妻の看板芸として大活躍します。

 さて、天一の習い覚えた水芸は、養老瀧五郎のような規模の大きなものではなかったようです。旧来の、水が一筋、二筋出る程度の至って小さな仕掛けだったようです。

 それもすぐには習得できず、随分音羽の師匠の下で修業したようです。その修行のかいあって、天一は独立をし、一座を持ちます。この時の天一の名前は、音羽瀧寿斎です。恐らく25歳くらいでしょう。名前は立派ですが、芸はまだまだです。

 私は、かつて、天一について、「天一一代」と言う本を出しました。この時、天一の修行の過程を、禅の十牛図(じゅうぎゅうず)に当てはめて解説しました。何も知らない少年が、一つの芸を学んでゆく過程で、人間が大きくなり、今まで考えてもいなかったことが見えてくる。全ではその修行の過程を、牛を見つけて飼いならすと言う絵を見せて、平易に解説しています。この絵がまことに芸能の修行とよく当てはまるため、私はよく話をしています。

さて、その十牛図については明日お話ししましょう。

続く