手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

伝統文化が危ない 3

5、舞踊 6、邦楽 (続き)

 かつて、国立劇場の裏の出演者用の駐車場は、ズラリベンツが並んでいました。半分は歌舞伎俳優が乗る車であり、残り半分は邦楽演奏家が乗る車でした。バブルの頃の邦楽演奏家の収入は、伴奏者としてのミュージシャンとしては、最高のギャラを取っていたでしょう。軒並み1000万円以上の年収を得ていたと思われます。伝統芸能がそこまで認められていたことは素晴らしいことだとは思いますが、旧作を守って活動すると言う人たちが、そこまでの収入を得ると言うのはかなり特殊な世界ではないかと思います。

 クラシック音楽でも、一般の交響楽団に所属していては、それほどの収入は得られません。バイオリンでも、ピアノでも、ソリストとなって、人間業を超えた技巧で知名度を上げるか、作曲で人の心をつかむ以外に大きな収入は得られません。その点で言うなら邦楽は恵まれていたことになります。それもこれも、種を明かせば、日本舞踊と言う特殊な世界で演奏していた故です。

 日本舞踊はかつて数万人の門弟を要していました。その中のプロと称する人は100人とか、200人と言ったところでしょう。100人の師範格以上の舞踊家が、万単位の生徒を持ち、年に一回大きな発表会を開いて、生徒の人たちを気分良く舞台に上げるわけです。私も経験がありますが、国立劇場の楽屋を与えられ、顔師に化粧をしてもらい、床山(とこやま、かつらや)さんに鬘を作ってもらい、本衣装を衣装屋さんに着付けてもらい、舞台の上にはプロの清元の演奏家を6人配し、舞台上では歌舞伎役者が紋付を着て、細かな小道具を私に手渡ししてくれます。つまり私以外はすべてプロなのです。

 こんな舞台を一度でも味わうと病みつきになります。但し、下稽古から打ち合わせまで数度の稽古を合わせて300万円ほどかかります。私は一度経験しておこうと、自前で払いました。多くの場合、娘を持つ親が、娘の綺麗な姿を残しておこうと、費用を出すのです。つまり、舞踊とは、プロが総出で素人を持ち上げる組織なのです。国立劇場などで、朝から晩まで一日20番も、30番も素人さんの舞踊が行われ、数千万円の収入を上げていたわけです。

 但し、バブル以降はこれが大幅に縮小されました。それにつれて、舞踊家も、演奏家も廃業する人がたくさん出ました。この傾向に歯止めがかかりません。

 舞踊家演奏家はどうしてこうなったのかと愚痴ります。しかし私は知っています。それは、伝統芸能の活動が現代と何もつながっていないからです。音楽を見ても、現代人が名前を聞けば。「あぁ、あの曲か」。と分かるような音楽が一つもないのです。今の人が求めている音楽を邦楽会は世に出していないのです。振り付けも現代人が飛びつくような作品が見当たらないのです。旧作は結構なのですが、旧作だけでこの先、1000万の収入を得ることなど絶対に有り得ないのです。

 いかに古典とはいえ、今につながっている作品を作らなければ、この先、伝統芸能は生きては行けません。今、面白い作品が出来なければ、100年後に、令和に作られた名作は何だったかと問われたときに、何もなかったと言うことになってしまいます。

 舞踊や、邦楽は、平成になってから創造を放棄してしまったのではないかと思います。それで芸術が生き残れるはずがないのです。みんなして素人に寄り掛かって生活した結果、舞踊も、邦楽も、グローバルなアートから遠ざかってしまっているのです。

 

7、その他、曲芸、軽業、手妻、曲独楽、車人形、写し絵、

 私が平成21(2009)年に、新潮社から、「手妻のはなし」と言う本を出したときに、多くの大学の教授からご連絡をいただきまして、あちこちの大学で手妻の講演をさせていただきました。講演はいまも続いております。日本の伝統芸能を研究している先生方は、文学部に所属していらして、その中でも、歌舞伎、文楽、落語の研究を芸能のメインととらえていらっしゃるようです。我々手妻、或いは軽業、曲芸などは、サブカルチュアーと呼ばれてひとまとめにされています。つまり研究対象としてはその他に属する世界のようです。

 その区別の理由はよくわかりませんが、一つは、歌舞伎や文楽に比べて、資料が乏しいようです。確かに、手妻を調べた時に、資料の不足には随分泣かされました。馬を飲んだと言う、塩屋長二郎ですら、その生い立ちも、死亡年もよくわからないのです。蝶の芸を完成させた柳川一蝶斎も分からないことだらけでした。然し調べてゆくうちに新発見が次々にありました。お陰で、一蝶斎は一つにまとめることができました。

 名だたる目人ですらこんな状況ですから、ましてや、一つ一つの手妻の作品の歴史、変遷などとなると、マジックをしない大学教授にはもうお手上げです。それを私のわかる限り文献を調べて、なおかつ昔の師匠から聞いた言葉、道具の演じ方などをつぶさに書いたため、多くの教授から感謝の言葉までいただきました。

 つまり、これまでは、マジックの歴史や研究などは大学教授に任せっぱなしで、手妻師の側から何一つ発信してこなかったことに問題があります。これでは、如何に手妻の文化が素晴らしいと説いて回っても、その価値は伝わりません。まず自らの言葉で、自らの知識を語って行かなければことは始まりません。

 そのことは、曲芸や、曲独楽、軽業に於いたっては一層切実なことで、曲芸、軽業の芸能は、手妻以上に資料が貧しいのです。特に大道の芸能となると、劇場もなく、チラシもありませんから、いつ、誰が、、どこで、何を演じていたか、そのすべてが謎のかなたなのです。これでは大学教授も調べようがなく、自然にサブカルチュア-の扱いになって、研究対象から離れてしまいます。

 

 話は変わりますが、ここで私は少しでも資料を後世に残す努力をしなければならないと痛感しました。これまで小遣いをためて買い集めた様々な資料などを、この先どう残すか、「手妻のはなし」を書いて以降、私の粗末な資料を誰に譲るか、毎日悩みました。そこで出した結論が、家元制度でした。私自身、家元制度などとと言うものは因循姑息な臭いがして、嫌いでした。

 しかし、私の資料、道具類をこの先どうするかとなると、残すためには家が一軒分必要です。それを弟子に押し付けるのは酷です。自分がアパートに暮らしているような弟子が、家一軒分の道具を譲り受けても、乞食が馬を貰うような結果になります。自分が食べて行けない状態で、馬など養えないのです。

 そうなら、家ごと持参金をつけて弟子に譲る以外ないのです。そして、その維持費のために、生徒の指導をし、生徒から協力費を貰って維持費に当てるシステムを作り上げる以外、組織を維持して行く道はないのです。本来は国がそうしたことの配慮をしてくれるべきものなのですが、いつまで待っても国の支援は来ません。仕方なく私が勝手に家元制度を作り始めたのです。このことはまた家元制度のページでお話ししましょう。

 

 その他の芸能が、いつまでもサブカルチュアーの扱いを受けるのはそれなりに理由があります。次回はその点を詳しくお話ししましょう。

続く