手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

伝統芸能が危ない 2

江戸落語上方落語 

 東京には落語協会落語芸術協会の二つの落語家の組織があり、都内の4つの寄席と契約をして、交互に落語家を寄席に出しています。この二つの協会のどちらかに所属すれば、マジシャンでも寄席に出演できます。寄席のいい所は一年中出演のチャンスがあることです。私も経験がありますが、寄席に毎月出演していると、話し方は覿面に上達します。無論、マジックの技も上達します。良いことづくめです。

 そうならもっともっと多くのマジシャンが噺家と専属契約を結べばよさそうなものですが、そこにはバリアがあります。色物はあくまで噺家より前に出てはいけないのです。噺家はロープの切れ端を舞台に落とすだけでも嫌いますし、花吹雪を散らすことも嫌います。表立っては否定しませんが、人づてに否定されます。なまじ喋りで笑いを取るとたちまち、「しゃべりネタを減らせ」。と苦情がきます。独特の社会です。ここで生きて行くとなると、芸の内容がどんどん退行してゆきます。外に向かって大きく羽ばたきたいと思う若いマジシャンにとっては生きにくい世界です。

 噺家を見ていると、クロースアップマジシャンによく似ています。自分の考えた小さな工夫、小さな世界を観客に理解してもらいたいのです。その世界を崩すような芸人が周囲に現れるとたちまち反発します。小さな小さな個の世界を大切に生きているのです。その芸で稼げるとか、売れるとかは問題ではなくて、自分の世界を守って生きて行きたいのです。そこを理解できる人が寄席で活動できる人なのです。

 これを考えが狭いと言うのは失礼です。寄席は噺家のものなのです。昼から夜まで40本もの噺家が出ます。噺家はそこで揉まれて修行しています。外部の者が噺家の邪魔をしてはいけないのです。自由にやりたければ、マジシャンの劇場を持てばよいのです。

 私が20代で寄席から離れたのは、チームを作ってイリュージョンに乗り出したからです。もっと大きな枠の中で仕事がしたかったのです。

 

 東京の寄席と、大阪の寄席では随分事情が違います。座敷芸から発展した東京の寄席はどうしても小さくまとまりやすいのですが、大阪は小屋掛けから発展した噺がもとになっていますので、噺の間に鳴り物(三味線、笛、太鼓)が入ったり、噺家の前に見台と言う文机のようなものを置き、そこに、子拍子と言う小さなつけを置き、噺の合間合間に講釈のように、子拍子を打ってメリハリをつけます。何事も派手で、大きく見せて、外を歩くお客様を呼びこむ工夫をしたのでしょう。

 然し、上方落語は昭和になってからは漫才に押されっぱなしで、一時期は絶滅寸前だったのですが、昭和40年代に息を吹き返し、今日の隆盛を維持しています。近年では繁盛亭と言う専門の寄席も復活し、噺家の数も増え、安泰と言えます。

 然し、一度消えかけた文化の継承は難しく、東京にある真打制度などと言うものは大阪にはなく、縛りがない分結束も弱いようです。通に言わせると、落語の内容も乱れていると言います。と言うよりも、大阪で古典落語をそのまま演じることが既に難しいのかも知れません。何しろ、吉本興行を脇に見据えた上での落語の維持ですから、生易しいものではないのでしょう。古典でございますと治まっていても、人は支援してくれないのが大阪の難しさでしょうか。

 

5、舞踊、 6、邦楽

 実は、伝統芸能で、大きく支持者を減らしているのはこのジャンルです。かつて、どこの町内にもあった、日本舞踊や長唄三味線のお稽古場がどんどん消えています。清元や、常磐津となるとめったなことでは町中で看板を見ることはありません。ましてや琴の稽古場となると今は昔の物語です。かつてはお屋敷町では琴の音が聞こえ、商店などでは三味線の稽古の音が聞こえたのですが、習い事は全般不調なようです。

 私の知る日本舞踊の稽古場でも、生徒が高齢化して、若い人がなかなか集まりません。今いる生徒さんは、子供のころ舞踊を習っていた人が、子育てが済んで、時間ができたため、再度習い始めたと言う人が多いようです。子供の頃の下地があれば、舞踊に入りやすいでしょうが、全く経験のない人には入りにくいのでしょう。

 舞踊も、長唄も清元も、常磐津も、義太夫も含めて、これらは歌舞伎と密接につながっています。長唄、清元、常磐津は歌舞伎舞踊のBGMです。実際歌舞伎座に出勤して演奏している師匠もたくさんいます。また、舞踊は、その流派の家元が歌舞伎役者である場合が多く見られます。江戸時代に隆盛を誇った歌舞伎も、明治期になって観客を減らします。そのため観客動員の一助にと、素人さんに舞踊の指導を考えます。

 江戸期には専門の舞踊家も振付師もいなかったものが、舞踊の稽古が流行ると専門家が現れます。併せて素人の発表会が盛んになります。そうした愛好家を歌舞伎役者はファンにつけて観客動員を図ります。踊りの発表会は演奏家の生活を助けます。歌舞伎座に出勤しなくても、発表会だけで安定した収入を得る演奏家が増えます。

 プロの演奏家を並べて、歌舞伎の本衣装を着て、国立劇場などで舞踊の発表会をする、と言う愛好家が増えます。彼ら彼女らは一回の踊りに500万円も、800万円も散在します。それでも楽しいと言うお金持ちが、かつては大勢いたのです。然し、それも今や昔話になろうとしています。そうした遊びを喜ぶ人たちが減っています。

 お陰で演奏家も、舞踊家も、歌舞伎役者も支持者を減らしています。かつては広いすそ野を持って活動していた伝統芸能ですが、近年はみるみる生活の場を失っています。この生徒さんは、着物を着ることが趣味で、着物を着て、舞踊の発表会や長唄の会などに行き、また歌舞伎を見に行くことを楽しみとしていた人たちでしたが、そうした愛好家が減少しています。当然呉服屋さんや、和装小物屋さんなども売れなくなってきています。こうなってくると日本文化の絶滅はカウントダウンに入ってしまっています。

 

 冷静に考えてみれば、琴、三味線と言った、古典楽器を習う人が全国で十万人以上いた時代と言うのは、世界的なレベルから見たなら驚異的なことです。クラシック音楽のようにグローバルな音楽なら外国でも、一般の教養として学ぶ人は多くあっても、その国にしか通用しない楽器で演奏したり唄ったり、それに合わせて踊ったりと言う芸能がしっかり根を張って残っていた日本は優れた伝統文化の世界だったわけです。

 疑う前に、中国や、朝鮮半島で、古楽器を演奏する人が何人いるか、それを習っている愛好家が何人いるかと考えたなら、日本の百分の一もいないのではないでしょうか。

 日本は恵まれた環境で伝統芸を維持してきたと言えます。但し、余りに日本文化を理解する厚い層に、おんぶにだっこで、理解者ばかりを相手にしてきたことが、ここへきて大きく理解者を減らしてしまった原因なのではないかと思います。そのことに関してはまた明日詳しくお話しします。

続く