手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

伝統芸能が危ない

 世の中はうまく行かないものです。昨日7時間も眠ったため、今朝は5時間しか眠れませんでした。またも朝4時に起きてブログを書くことになりました。私はこんな気ままな生活が好きなのですが、体調を思うと、もう少し平均して眠れたほうがいいのではないかと思います。

 

 古典芸能について書いてみましょう。1、能狂言、2、歌舞伎、3、文楽、4、落語、

5、舞踊、6邦楽(長唄、清元、常磐津、新内)7、曲独楽、軽業、車人形、写し絵、手妻、順に簡単にお話しします。

 

1、能、狂言

 能も狂言も健在です。平成になってすぐくらいいから、薪能と言う形式が出て来て、夜にライトアップされて、神社の野外などで能と狂言が演じられるようになりました。以来、能が一般に再評価されるようになり、能役者はにわかに多忙になりました。

 能は本来、日中に演じるものであって、夜の興行と言うものはありません。然し、薪を焚いて、ほの暗い中で能を見ることは能の幽玄さを引き立てます。あちこちで薪能が催されると、それまであまり自らの芸能を一般に売る活動をしてこなかった能役者が、マネージャーをつけるようになり、スケジュール管理が必要なほど多忙になりました。薪能を考えたプロデューサーは能の寿命を救ったことになります。

 狂言も長い事不遇で、日本国中の中学校などを回って狂言の会を催していました。和泉元彌さんのお父さんの和泉元秀さんが私の中学校に来て、狂言をしたのを私は見ています。昭和40年代までは、古典と言えどもなかなか生活してゆくのは難しい時代だったのでしょう。然し地味な学校公演活動が功を奏し、やがて市民会館で、狂言と言うバリューを勝ち取り、今では日本中の市民会館で狂言の会が開催されています。

 また野村萬斎さんなどは、コマーシャルに出て、積極的に顔を売って、創作狂言を一般劇場で見せるなどして活躍しています。とてもいい活動で能狂言の世界を引き上げています。能狂言は、現在のところ安泰でしょう。

 

歌舞伎

 団十郎さんの襲名が飛んでしまったことは、いろいろな点で歌舞伎を不安にしています。先ず松竹が大苦戦です。歌舞伎座で3か月興行し。京都、大阪、名古屋、博多と襲名披露して、その後は日本中の市民会館をあけて、まず2年がかりの襲名公演を企画したものが、コロナウイルスによって、企画はすべて消え、ゼロから立ち上げなければいけません。この先の松竹の存続すらも危ぶまれます。

 無論、歌舞伎にも多くのスター、名人がいますから、あの手この手で盛り上げて行くでしょうが、前途は多難です。

 私が学生だった、45年前は、歌舞伎座は閑古鳥が鳴いていました。歌舞伎はお客様が入らなかったのです。実際歌舞伎座で歌舞伎がされていたのは8か月だけ、間の月は、三波春夫さんのショウや大川橋蔵さんの銭形平次などを実演していました。肝心の歌舞伎は、幹部の俳優が、勘三郎(17代目)さんも。幸四郎(8代目)さんも、歌右衛門(6代目)さんも、みな年を取ってしまって、熱のある芝居を見ることがありませんでした。一人、猿之助(3代目)さんのみが奮闘公演をして、若い観客を集めていました。私も猿之助さんのファンでした。

 当時、私は浅草松竹演芸場に出演していました。私が芝居が好きだと言うことは演芸場の支配人も知っていますから、歌舞伎座から招待札が回って来ると支配人が私のために取っておいてくれました。お陰で度々歌舞伎を見ることができましたが、無料の札が浅草にまで回ってくるわけですから、歌舞伎座の入りは良くありません。名人、人間国宝が出演していても、客席が5割6割の入りがしょっちゅうでした。専門誌には、「歌舞伎は消えて行く」と書かれていました。今の歌舞伎の隆盛は当時を思えば嘘のようです。でも、それだけに、今の繁栄がいつ昭和40年代の状況に戻らないとも限りません。安閑とはしていられないと思います。コロナ以降はどうなるでしょうか。

 

文楽

 文楽は、東京では観客を満杯にしますが、地元の大阪では振るわず、なかなか文楽劇場が満席になりません。かつて橋下徹府知事が文楽を見て、「何を言っているのかわからない。つまらない」。と言ったことは、文楽界にとっても、古典芸能の愛好家にとってもショックでした。

 そもそも東京で、なぜ文楽がよく入るかと言うと、歌舞伎でも、文楽でも、義太夫狂言物の芝居があります。筋は全く同じです。しかし、役者が演じる歌舞伎は、役者が目立って、義太夫が脇に回るためため、ところどころセリフが聞き取りにくくなります。それが文楽の公演で聞くと、人形は喋りませんので、100%太夫さんの語りを頼りに聞くため、筋立てがよくわかります。多くの東京の観客は、まず文楽義太夫を聞いて理解し、そして歌舞伎を見ているのです。それ故に文楽も、歌舞伎も相乗効果で人が入るのです。大阪の文楽の不入りは、もう少し地元の文化に大阪人が理解を示す必要があると思います。300年も前の芝居が、今もきっちり演じられていると言うのは、先進国の中でもずぬけて優れた文化を持っているのですから、大阪ももっと理解者を作る努力をしても良いと思います。「何を言っているのかわからない」。と言うのでなく、相手の言葉を理解してあげる寛容さが必要なのです。それが知性なのです。

 

落語

 落語も、歌舞伎と同様、観客が一時離れ、都内の寄席も存亡の危機の時代がありました。然し、不思議と消えません。これが伝統芸能の底堅さなのかもしれません。もうこの先落語は終わる、と言う時になると新しいスターが出て来ます。私は20代の頃よく寄席に出させていただきました。

 初めの内は、いろいろ工夫をして、珍しい道具などを持ってゆくのですが、なんせ、床の間のような小さな舞台ですから、大きな道具は終わった後の置き場所に困ります。噺家さんも、道具を邪魔がったり、「そんな無理してやらなくていいからね」。と、内輪に生きることを勧められます。段々寄席に慣れて来ると、道具の数も少なくなり、手間のかかる事はしなくなり、徐々に地味な芸になってしまいます。「あぁ、こうして人は諦めて行くんだなぁ」。と思います。

 寄席に限らず、伝統芸能の世界を見ていて思うことは、大きな流れとして、みな諦めて生きています。売れることも、稼ぐことも、自己主張することも、みな周囲に気を使い、目立たないようにひっそり活動するようになります。「それじゃぁいつまでたっても売れないだろう」。と思います。その通りです。寄席に長くいると、行儀の良い、おとなしい、無気力な芸人が育ってゆきます。その生き方を覚えない限り、安い割り(ギャラ)で長く生きて行くことはできないわけです。

 そんな中でテレビに出て、司会などをして、人気も収入も手に入れている噺家もいます。居並ぶ噺家と比べても収入が数百倍違うでしょう。そんな人が同じ寄席に出ているのですから、人間関係は難しいです。陰に回れば、嫉妬は勿論。芸も、人間性も否定されます。人気の噺家は、自分が売れているが故に否定されていることは百も承知ですから、舞台を終えるとすぐに楽屋からいなくなってしまいます。

 売れなければ生きることは難しく、売れたら売れたで仲間から悪く言われます。同業者の集まる仕事場と言うのは難しいものです。

 但し、そうは言っても、基本的に寄席は身内には暖かいのです。何か事があると噺家は結束します。襲名などもそうですし、真打昇進などもみんなで祝います。出演者を決める会議でも、「あいつはこのところ出ていないから出してやろうか」。などと情が優先されます。それが行きすぎると、十年一日のごとくネタの変わらない漫才さんなどが、頻繁に使われたりします。明らかにお客様に飽きられていて、この人たちが舞台に出ると、お客様がロビーに出て、煙草を吸っているような人でも使ってくれます。

 身内かばいが過ぎるのです。良くも悪くも、伝統芸能の弊害はこんなところにあります。しばしば寄席の世界は観客を無視して、身内の理屈を通します。なぜネタの古い、面白くもない漫才を寄席は出してやるのか、長いこと私はわかりませんでした。然し、ある時気付きました。

 噺家は上手い色物(落語以外の芸能、奇術、曲芸、漫談、声帯模写など)が嫌いなのです。色物が笑いを取って、受けたりすると、その後では噺家が霞んでしまうのです。噺家にすれば、古かろうが、受けなかろうが、自分を引き立ててくれる下手な色物が好きなのです。噺家の理屈はそれで通りますが、このやり方では寄席演芸が衰退します。

 私が20代で、初めて新宿末広亭に出演したときに、初めに、北村幾夫若旦那は、喫茶店に私を呼んで言いました。「決して噺家の言うことを聞いてはいけないよ。噺家は君が受けたら受けたで文句を言うし、新しいことをすれば文句を言う、でもそれを押し通しなよ。君がやりたいようにやるんだ。そうしないと寄席に新しいお客さんが来無くなる。君の新鮮さに期待して、僕は君を使うんだからね」。

42年前の幾夫さんの言葉は今も忘れられません。良くも悪くも伝統芸能に脈々と続く、嫉妬と悪平等の世界は今も変わらないのでしょう。

続く