手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

コロナの果ての人類の衰退

 昨晩はごちゃごちゃ書いていたら、3000字を超えてしまいました。どうしても学校閉鎖の無意味までは書きたかったので、長いブログになってしまいました。すみません。私のブログの欠点は話が長いことです。続きをお話しします。

 

 ロックダウンは外科手術

 ロックダウンとスウェーデン方式の違いは、今の、生活をストップすることでコロナの活動を止めるか、生活を維持しつつコロナの対策を考えるか、の違いです。

 単純にコロナの活動を止めるだけならロックダウンは効果的です。今回も見ていると、医師も、政治家も、学者もロックダウンを支持していました。

 でも、ロックダウンは人類を衰退に導きます。人が営々と築き続けてきた活動は、安易に壊してはいけないのです。日々何気に行われている日常の行動も、よくよく見たならどれも理由があって、細かな行動様式で作られています。

 

日常の中のルール

 毎日、駅の改札からたくさんの人が出て来ますが、それはどの人も決して思い付きで適当に改札を利用しているのではなく、きっちり理由を持って、規則的に改札から出て来ています。一回一回、出て来る人をチェックしてみれば、毎日毎日、きっちり同じ時間にほとんど同じ人が出て来るのです。無論例外もありますし、わずかな時間の違いはありますが、ほとんどの場合はルールができていて、ルールに沿って人が改札を出入りしています。

 私の家の前には、環七と言う東京の主要道路があります。車はひっきりなしに走っています。どの車も私には縁のない車が走っていますから私の目には、ただたくさん車が走っているとしか思えません。

 然し、この車の流れも実は、細かなルールで走っています。仮に、ここ車の流れを一時間、ビデオで撮って、翌日同じ時間をビデオで撮って、見比べてみれば、全く適当に別々の車が走っていると思っていたものが、その実、同じ人が、同じ車で、同じ時間に、ほとんど時間を変えずに走っていることに気付くはずです。

 高円寺の駅前は焼き鳥屋が多いのですが、彼らは毎日適当に思い付きで焼き鳥を焼いているわけではありません。彼らは、たくさんの改札から出て来る人の中から、誰が店に来てくれる人なのかを知っています。そして、来る人が、タレが好きなのか塩焼きが好きなのか、何曜日に来て、何本食べて行くかも知っています。毎日毎日、理由もなく焼き鳥を焼いているわけではなく、月曜日は何本くらい売れる。そのうちのタレの焼き鳥は誰と誰が買う、と言うことを知って焼いています。それ故に、焼き鳥は余らないのです。焼鳥屋は漠然とした人の流れから、ルールを悟り、その日の自分の仕事を作っています。これが人の生き方です。

 

 ルールの乱れが社会不安につながる

 私の話は回りくどく、長いのですが、私が、一年を通して、舞台に立つ活動をしていても、毎回、いつごろ私に舞台の仕事をくれる人があるか。と言うことを知っています。「そろそろあの人から仕事の依頼がきそうだ」。などと思って仕事を待っています。長くこの仕事をしていれば、その予測はほとんど外れません。そうした読みがあるから、毎年毎年全く白紙のカレンダーから仕事をスタートしていて、一年たってみたなら、前の年とそう違わない仕事の本数をこなしているのです。

 ところが、ロックダウンは、こうした人の営みを破壊してしまいます。ロックダウンはまるで外科手術です。不用と思われる部分は容赦なく切り取ってしまいます。切り取った結果、局部の治療は効果を生みますが、人の営みに狂いが生じてきます。

 

 焼鳥屋のおやじが、たれと塩焼きの本数を読み違えたと言うだけの話なら、大した話ではありません。それがロックダウンによって、いつも来る人が来なくなり、売り上げが大幅に下がるとなると、親父の生活に支障をきたすようになります。やがて親父に体の不調が出て来ます。レバーを焼いていた親父が自分レバーが機能しなくなり、やがて親父は店を閉店することになります。すると、店に出入りしていた肉屋や八百屋が売り上げを落とし、やって行けなくなります。それまで互いが支え合って生きてきた地域の社会が、ドミノ倒しのように崩れてきます。

 

 手妻師の廃業が、文化の損失になる

 単にマジシャンや、手妻師が仕事がなくなると言うだけの話なら、人はほとんど注目をしないでしょう。然し、一人の手妻師がいなくなることで、年間の漆職人の支払いや、指物師の道具代等が数百万円。衣装代が数百万円などと支払っていた金額がなくなってしまうと、指物師も、蒔絵氏も、塗師屋さんも、衣装やさんも仕事が成り立たなくなってゆきます。そうなればぽっかり文化芸術が途絶えてしまいます。

 

 数式に出ない損失

 恐らく一年後、コロナウイルスの影響で、何の業種がいくら売り上げを落としたなどと言うグラフが出て、業界の損失が語られるでしょう。然し、本当の損失と言うものはそうしたところには出ません。ロックダウンで、人と人のつながりが壊されてしまったのです。何人かは廃業し、何人かは規模を縮小し、人と人が細かく結びついていたものが、縦糸も横糸も修復できないほどにつながりが戻せなくなって行ったのです。

 コロナの前なら何でもなく出来たことが、どうしてもできなくなるのです。「あの人が死んでしまった」。「あの人が辞めてしまった」。気づいてみると紡いでいた糸が方々で切り離されてしまったのです。これは大きな戦争をした後と同じ状況です。アジアもヨーロッパも、アメリカも、必死になってロックダウンをした結果、細かく結びついていた人と人とのつながりが絶えてしまったのです。

 それがどれほど大きな損失か気づいていないのです。机の上だけでものを考えている人は、土足で人の仕事場に入り込んできます。そして、半世紀をかけて作り上げた人と人とのつながりを壊してゆきます。「またコロナが去ったらつくればいい」。いやいや、不可能です。一度消えた人とのつながりは二度と作れないのです。私は学者を、医者を恨みます。無謀なロックダウンを、決めた学者、政治会社を恨みます。わずかばかりの見舞金ですべてを解決させようとしている、人達を恨みます。

 環七通りの車の流れを見て、毎日ある種の法則で車が通って行く、と言いました。同じことを1000年前に、鴨長明(かものちょうめい)が鴨川を見て語ったのです。

「行く川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまることなし 世の中にある人と すみかもまたかくの如し」

 続く