手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 2

  すみません、この2日間、ブログを休んでしまいました。税金やら、銀行のことやら、いろいろなことでずっとあちこち駆け回っていました。マジシャンと言えども、実務をしなければならないわけです。私のブログを期待して、日に300人以上の皆さんが通りがかっています。来ていることはわかっていても、期待に応えることができませんでした。誠にすみません。

 

 世間では、ついに非常事態宣言が出て、外出を控えるように言っています。安倍首相と、小池都知事の言うことが微妙に違うのが気になります。然し、いずれにしても、人の不安を煽るばかりで、少しも見通しが立ちません。いたずらに自粛を求めてきます。このままでは多くの企業や、飲食店は倒産をしてしまいます。初めにいつまでの非常事態なのか、何が解決したら解除なのか。更に保証を明言して、そのあとで非常事態宣言を出すべきものを、いつでも自粛要請ばかりが最優先されます。明らかに手法が間違っています。

 

 歌舞伎座で5月から催される団十郎襲名が休演になりました。まさか、3か月に及ぶ公演を休むことになるとは思いませんでした。いかなる政治的な手段を使っても、松竹は団十郎の襲名はやるはずだと思っていました。それでなければ、松竹がここまで掛けた経費が水の泡です。

 損失は、3か月だけにとどまりません。東京の襲名を終えると、それ以降、京都南座大阪松竹座、名古屋御園座と、一か月ずつ興行し、更には全国の市民会館で襲名をします。松竹はこれから2年間、団十郎襲名で会社を維持しようと考えていたのです。仮に東京の三か月間を休止したとして、赤字は三か月分の入場料だけでは収まりません。そのあと8月から日本中の劇場がが再開されたとしても、京都や大阪から襲名披露を始めることはできません。やはり初めは歌舞伎座からスタートしなければなりません。そうなると、来年以降の全ての劇場のスケジュールを組みなおさなければいけませんし、年内のスケジュールをいかに別の企画で埋めるかの問題も出て来ます。松竹にとって大きな誤算につながったことになります。

 襲名のために、各テレビ局で特番を組んだりして、襲名を盛り上げて来たにもかかわらず、結局、団十郎襲名はいつになるのか、今のところ予定が立ちません。松竹も、海老蔵さんも多難な船出となったわけです。

 

 銀座の弁当屋さん、弁松が店を閉めました。あの大きな玉子焼きと、こってりした甘い煮豆は昭和の子供の憧れでした。日本橋の弁松は何とか続いているようですが、もしこの世から弁松がなくなるようだと昭和生まれは涙が出て来ます。

 

 私は、結局、神田明神の劇場での3日間の公演(7日、14日、24日)を中止しました。私自身は開催するつもりでしたが、神田明神自体が神社を閉鎖することになりました、これではどうにもなりません。残るは、18日の人形町玉ひででの公演です。これもどうなるかわかりません。

 玉ひでさんがお店を明けているなら開催します。私からやめることはありません。私が手妻をするということを止めることは誰もできません。また、それをご覧になりたいというお客様がいるなら、私は演じます。それが私の仕事ですから。

 

オイルショック

 オイルショックは高度成長のさなかに起こった青天の霹靂でした。昭和48(1973)年中東戦争が勃発し、その不安から、石油産油国が油の値段を数か月のうちに3倍に値上げしたのです。それまで安い油をじゃぶじゃぶ使って経済成長していた先進国が、顔面蒼白になりました。日本ではなぜかトイレットペーパーの買い占めが始まり、マイカー自粛、ガソリンスタンドの土日休み、銀座のネオンが消され、テレビの深夜番組が無くなって、連日パニックになりました。資源は有限であることをみんなが知ったのです。省エネと言う言葉が生まれました。

 体力のない会社は倒産し、生き残った大きな会社も、会社の廊下の電気を消したり、外の看板の電気を消したりと、省エネが徹底し、世の中が陰気臭くなりました。

 ショウの世界も仕事が減りました。従来の家族で経営していたような芸能社が少なくなってゆきます。変って体力のある芸能事務所を相手にしなければ、芸人も生きては行けなくなります。それまで、仕事は契約もせず、値段も決めずに行っていたものが、値段の取り決めをするようになりました。

 今の感覚で言えばそんなことは当たり前なことなのですが、まだこの時代は芸能は職業と考えられてはいなかったのです。私の親父などは、生涯自分から値段を言いませんでした。かかってくる仕事の電話は、日にちが合えばそれだけで了解していました。ギャラは貰うまでわかりません。一回1000円の時もあれば、1万円の時もあります。すべては相手の思し召しです。まったく不安定な生活でした。しかし当時の芸人は落語も漫才も、演歌歌手も、みんなこんな風でした。紙に包まれた謝礼がギャラの全てで、一体中にいくら入っているかは後のお楽しみだったのです。

 

 

 オイルショック以降、事務所も、タレントも、簡単な契約をするようになります。そしてそれにつれて、芸の内容も、持ち時間や内容などの取り決め等がやかましくなってきました。芸を見せる側からすると契約は、より収入が安定し、大変に助かることなのですが、何となく江戸時代から続いて来た遊びの世界が消えて行き、芸能が職業になってゆくことで、全く違った時代が来たように感じました。

 従来の売りネタばかりで繋いだ手順を演じていたマジシャンはどんどん仕事を失ってゆきました。また、音楽も適当に流しっぱなしで、曲と演技がつながらないマジシャンもどんどん淘汰されて行きました。別段そうした芸人さんだけが狙い撃ちされて仕事を失って行ったわけではないと思いますが、後になって、残っているマジシャンを見ると、確実に古いスタイルのままのマジシャンは消えて行きました。

 私はキャバレー事務所に所属するようになりましたが、事務所は月末になると現金で支払いをしてくれて、本数もまとまってもらえたので収入が安定しました。少しゆとりができたので、音楽を作曲してもらい、譜面を作りました。

 当時のキャバレーは、生演奏ですから、演技の曲は譜面を持参し、バンドと事前に打ち合わせをして演奏してもらいます。収入のないときは、バンドのメモリーの音を借りて、適当に合わせてもらっていましたが、やはり細かなきっかけまで書き込まれた譜面を作ると、演じていてもものすごくグレードの高い演技をしている気持になります。私は一部、二部4曲ずつ、8曲の譜面を作曲してもらいましたが、その作曲料と、写譜の代金は私の一か月の収入以上の金額で、大変な出費でしたが、そのお陰で、まるで仕立ての洋服をこしらえたような贅沢な気持ちで演技ができました。

 さて、手順を細かく作り上げたり、作曲を依頼して、キャバレーの仕事も順調に稼いでいたのですが、昭和54(1979)年に第二次オイルショックが起きます。その被害は第一次よりも大きく、多くの自動車会社が倒産の危機に追い込まれます。

続く。