手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 1

  このところ  、私のブログをご覧になる人の数が50%くらい増えています。これは私のブログの人気が上がったのかと言うと、そういうわけでもないようです。コロナウイルスの影響で、外出しない人が多いせいか、外に出るな、じっとしていろと言われて、ゲームをするか、メールを読むかしかすることがない方が多いのでしょう。

 せっかく陽気が好くなって、あちこちに出かけたいところなのに、コロナがはびこって、遠出もできず、手近なところでパチンコか飲み屋にでもと思うと、周囲の目が、まるで怠け者を見るように冷たい視線を浴びせかけ、わずかな息抜きすらも思うに任せず、万事休すの状態で、「新太郎のブログでも見るか」。と、ダイニングにある、数日前封をに開けた、湿ったポテトチップスをつまみながら、何の期待もせずに横になってテレビを見ているような、あの、でれでれっと、あきらめの気持ちに身をゆだねて、私のブログをご覧になっているのではないかと思います。

 それでいいのです。期待をしないお客様を前に、出来がいいとは言い難い、生な時間つぶしのブログをお見せすることこそ芸術の原点なのです。疑う前に大道芸をお考え下さい。ただの行きずりのお客様を相手に、素朴な芸を見せているうちに、やがてそれが芸術に昇華してゆきます。あれがすべての芸術の出発点なのです。芸術は暇人が育てるものです。そうなら、コロナウイルスは、期待しない、暇なお客様をたくさん作って下さったわけですから、この先優れた芸術が生まれる出発点となり得るのです。

 

 昨日のブログで、わたしが、「コロナウイルスが収まっても、元の生活には戻れない。半年後、一年後の世界は今とはまったく違った世界になる」。と書きました。それがどういうことか詳しく教えてほしいという人がありましたのでお話ししましょう。

 世の中を見ていると、10年に一度、津波が起こります。そして20年に一度大津波が起こります。津波とは社会をひっくり返すような大きな問題のことです。どんなに世の中がうまく行っていても、必ず、10年に一度大問題が起こり、その被害を被る会社や個人が耐えて行く体力がなければ消え去ってしまいます。

 ところが津波が去れば、そのあとは嘘のような復興景気が起こります。被害を受けた人、消え去った人がいなくなることで、社会全体の数にゆとりが出て来ます。結果、耐えて残った人に成功の種をもたらすのです。人の不幸で稼ぐのは失礼なことですが、実際景気と言うものはそうやって波を作り出してゆきます。

 津波はほぼ10年ごとに間違いなく起こります。ほぼと言うのは、1、2年の誤差を指します。私が生まれた昭和29年は、まだ日本は貧しかった時代ですが、経済は日に日によくなって、町の様子も日に日に豊かになって行くのがわかりました。私が清子の弟子になって、いろいろな仕事についてゆくようになった昭和42,3年の頃でも、今思えば東京はまだ明治以来の風景が随分残っていたように思います。

 

 浅草橋の駅から浅草方向を眺めると、あの大通りの両側はほとんど木造の二階建ての瓦屋根でした。隅田川には、ポンポン蒸気船がたくさん走っていて、砂利や、資材を運んでいました。日本橋三越デパートは昔から立派なビルでしたが、向かいの商店街は、二階建ての瓦屋根で、佃煮屋さんも鰻屋さんも、そこの二階に住んでいました。

 それが昭和39年のオリンピックを境に、たちまち町中にビルが建ち並び、商店が会社になり、何もかも規模が大きくなって、日本中が綺麗になって行きました。

 昭和40年代初頭のマジシャンがどんなマジックをしていたのかと言うと、恐らく戦前のマジシャンと大差なかったと思います。私の師匠のような人はたくさんいて、新聞と水、毛叩きの色変わり、紙で巻いたハンカチ切り、ロープ切り、パラソルチェンジ、リング、取りネタはタンバリンか蒸籠(せいろう)、或いはメリケンハット、

 要するに、当時、マジックショップで売っているようなネタが中心で、それら全部と、マジックテーブルを一つのスーツケースに詰めて運んでいました。ほとんどのマジシャンは更にもう一つ分くらいレパートリーを持っていて、長い時間演じなければならないときには、スーツケース二つを運んで、演じていたのです。

 当時のマジシャンはそれを演じる事で20年も30年も生きて行けたのです。実際、女流のマジシャンは、そんな売り物の小道具でマジックを見せて、晩年には、木造のアパート一軒が買えるくらいの貯金を残したのです。考えてみれば今、アマチュアがボランティアでしているような内容で、かつてのプロは生活をして行けたのです。

 その頃の仕事は、いい仕事はお座敷に招かれて奇術をすることでしたし、値段は安いですが、町内のお祭りをこまめに回れば夏、秋の3か月は楽に暮らせました、お祭りを専門に紹介する余興屋(プロダクション)さんというものまであり、そこに挨拶に行くと、すぐに5本10本の仕事がもらえました。

 普段は寄席や演芸場に出て、町内会の寄り合いや、知り合いの会社の社長の忘年会、新年会、知人の結婚式等々、値段を言わなければ、仕事はいくらでもありました。

 昭和40年頃から、キャバレー、ナイトクラブがたくさん出来て来て、徐々に夜のショウが忙しくなって行きました。キャバレー専門の事務所もたくさん出来ました。私はちょうどそのころに舞台を始めましたので、キャバレーの仕事は随分やりました。

 お祭りの余興が2千円とか3千円と行った出演料だったのに対して、キャバレーは一晩で二回15分の違ったショウを見せなければいけません。内容を変えるのは苦労しましたが、しかし貰えるギャラは昭和46年くらいで5千円貰えました。勤め人の給料が月に3万円取れない時代です。わずか17歳の子供に5千円が支払われたのです。それもこれもマジシャンの数が東京でも100人といない時代で、しかも仕事の量がはるかに多かったものですから、需要が多すぎて、マジシャンが足らなかったのでしょう。

 この時代は日本の経済が右肩上がりで、毎年10%くらいの経済成長をしていましたので、ほとんどの人が生きて行くことに不安を感じていなかったように思います。赤坂でも銀座でも新宿でも繁華街は連夜遅くまで人が歩いていて、とても賑やかでした。

 建設会社の社長が、建売住宅を30軒くらい売り出して、その日に即完売して、頭金をしこたま財布やポケットに入れて、キャバレーにやってきて、ホステスに1万円ずつ配っていました。私がショウをすると、1万円札でできた紙飛行機が飛んできました。リングを演じていた私は、足元にとまった飛行機をガバと足で押さえながら、そのままリングを演じました。前に座っていた別のお客様が、私が足で抑えている1万円をそっと引っ張ろうとしましたが、ここは譲れません。リングの手順よりも、1万円の方に気が行って、何が何だか分からなくなってしまいましたが、必死で押さえました。でも、あの時代は、みんながニコニコして、輝いていました。

しかしその翌年、大きな津波がやってきました。1973年のオイルショックです。

続く。