手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リング 金輪 6

 昨日に引き続き、リングについて書きます。日本では、金輪(かなわ)という呼び名で、戦国末期、あるいは、江戸初期から演じられていました。しかし、金輪を使っていたのは多くは放下の芸人で、舞台で演じられていた資料がありません。それは玉すだれと同様で、すだれもまた、舞台の手妻師が演じた形跡はありません。

 金輪はその素材が金属で、演技をすると遠くにいても音がよく聞こえますので、大道で演じるには、人寄せにもってこいの素材だったと思います。しかしなぜ、舞台芸として発展しなかったのかが謎です。私なりの推測をすると、シングルリングとキーのすり替えや、キーの位置を別の位置に誘導して見せる技法。あるいは、キーの保持の仕方が未熟だったからではないかと思います。

 金輪はキーリングを二本使うと申しました。その二本を観客に渡すことはできません。しかし、全く渡さないで演技をするのは不自然だったろうと思います。そのため、金輪の演技はつなぎ外しを見せることはほとんどしないで、金輪の改めもそこそこに、いきなり造形の手順を演じていたようです。

 青森で金輪を習った時に、演技の仕方をずっと見ていると、しばしば演者がキーリングを手から離してしまい、度々キーが見えました。その時、「昔はキーを離して、人に仕掛けを見せても平気だったのではないか」。と思い当たりました。

 つまり、金輪と言う物自体が、マジックではなく、様々な形を作るだけの知恵の輪だったのではないかと言うことです。演者自身が、手妻であることを放棄して、形作りの面白さだけを見せていた可能性は十分にあります。

 いや、そうではなく、ちゃんと手妻として見せていた人もあったはずだ。という考え方もあるでしょう。その場合、キーをお客様に渡すのはどうしていたかというなら、恐らく大道で演じるときは、キーだけサクラに渡していたのではないかと思います。

 古いマジックはよくサクラを利用します。技法が未熟であれば、サクラを利用する以外に解決の道はなく、大道で生きるにはそれでよかったのでしょう。

 いずれにしろ、日本のリングの演技は、形作りの比重が大きく、繋げ外しの不思議に関してはごくあっさりしたものだったと思います。そのため、マジックとしての不思議さはあまりなかったのではないかと思います。その点を舞台の手妻師が見て、「あれは手妻ではなく、知恵の輪だ」。と思ったのではないかと私は考えます。

 

 明治を迎えて、多くの西洋奇術が入ってくると、日本の奇術界は一変します。洋服を着て、さっさと西洋奇術を看板にする奇術師が増えて行きます。それも当初は、なかなか手妻のスタイルから抜け出せず。伴奏は、三味線と太鼓(西洋楽器も、西洋楽器の演奏家もいませんので、やむを得ません)。服装は、着物の下にシャツを着て、袴をはき、唯一、シャツだけが西洋風と言った状態。足は、日本式の舞台ですから、靴は履けず、足袋を使用。演じる奇術は、なかなか西洋奇術の情報が入ってこないため、従来の手妻のまま。つまり言ってみれば、シャツ以外は何一つ変わらない内容で看板だけ西洋奇術の名前を名乗る奇術師が大勢いたのです。

 そうした中でも、海外から来る西洋奇術師と交渉をして、奇術を習う熱心な人が何人か出て来ます。そうした人が習い覚えた作品で今も生きている作品がかなりあります。サムタイ、袋卵、メリケンハット、ダラ棒、真田紐の焼き継ぎ、等々、今日では手妻と思われている作品の中に、西洋奇術が入って来ています。

 

 その中で、12本リングがあります。これは演者が誰なのか、どこの国のマジックなのか、その後西洋で12本リングはどうなったのか、全くはっきりしていません。全く謎のまま日本に残され、継承され、今は私の一門のみ継承されています。

 この演技は、本数の多いリングの到達点ともいえるもので、流れと言い、基本的な考え方と言い、マックスマリニーが演じた9本リングと同様に、本数の多いリングの特徴を余すところなく表現されています。

 さて、ここで私の長年の疑問が発生します。12本リングは、9本リングを発展させて出てきた作品なのか、それとも、初めに12本リングがあって、それを本数を減らすことで、9本リングが生まれたのか。どちらが先かという謎です。今となっては、西洋で、9本も、12本も消えてしまっていますので、解決の糸口が見えません。

 

 かつて、2005年に私はマジックキャッスルに出演した際に、SAMの役員が保管している、マジックミュージアムを見せてもらったことがあります。それはロサンゼルスにあり、元銀行だった建物の地下に道具が展示してありました。残念ながら、常時人がいませんので、SAMの役員に連絡を取って、その都度見せてもらわなければ見ることはできません。料金は無料で、全く、SAMの役員のボランティアでした。残念なことは、その博物館が数年のうちに火災を起こし、すべて消えてしまいました。(火災は一階の元銀行、当時は会社の事務所で起こったのですが、大量の水を送り込んで消火したため、地下が水浸しになり、しかも、一階の整理が手間取ったせいで、展示物全てが何か月も泥水につかり、結局すべて廃棄されました。世界に誇るマジックの文化が廃棄されたことは返す返すも残念です。)

 その作品の素晴らしさは、サーストンの人体切断の箱がそのまま残っていたり、実際サーストンが楽屋で使用した、化粧道具、衣装、アシスタントの衣装、等々、そのまま当時の楽屋が再現されていました。あらゆる有名なマジシャンの日常の小道具から大道具まで、丹念に収集していたのです。これらを買い集めることは大変な時間と費用を要したと思います。フーディーニの小道具、大道具もありました。その中に、チンリンスーのコーナーがあり、そこにチンリンスーが実際使ったリングがありました。

 リングの本数は8本で、銅で出来ていました。繋ぎ目は蝋付けがしてあり、明らかに継いでいるとわかるほどたっぷり半田が団子のように塗られていました。リングは銅製ですので、恐らく手でひねれば簡単に曲がってしまうと見え、当時のお客様が本気でひん曲げたものを後で直した形跡があり、丸と言うよりもでこぼこのリングでした。このリングを見ただけで、100年前にリングのアクトがどのように演じられていたかが想像がつき、思いが深まりました。

 

 話をまとめて行くと、当時の西洋のリングは8本が基本であり、9本は珍しかったのです。片や、12本は、トリプル、ダブルが2セット、シングル4本、キー。本数が多い分造形も派手です。そして何より12本リングの大きなメリットは、リングを全て渡せたことです。初めに11本リングとして、繋げてお客様に渡し、途中からキーをロードして来て、12本にしてしまうのです。数に紛れてお客様は本数がわからないのです。

 このアイディアによって、12本は完全にリングをお客様に渡して調べてもらう手順が完成したのです。私はここから推測して、初めに12本リングがあって、マックスマリニーは、12本のロードの手法を真似て、途中から8本リングを9本にする手を加えたのではないかと思います。つまり、9本の演技と言うのは一般にはなく、マリニーが12本からロードの技法を借用することで9本手順が生まれたのではないかと思います。

そうなら、12本の手順がいつ生まれたのか。次回その点を詳しくお話しします。