手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

往く道に花あり

 私が色紙を頼まれるとよくこの言葉を書きます。こんな文句があるのかどうかは知りません。しかし、芸能を続けて来て、しみじみ思うことは、一つことを追及して、それでその先に何かあるのかと言うと、別段何があるわけでもないのです。クイズの答えがわかったとか、数学の問題が解けた、だからその先に何があるのかと言うと何もないのと同じです。そうなら、それらは自己満足かと言うと、それも違います。

 行く道は決まっているのですが、行ったからどうなったと言うことはあまり問題ではないように思います。むしろ、その道中にある様々な花を見つけて、それを自分事として、楽しむことのほうが大切なのではないかと思います。

 マジックを練習する、そしてマスターする、そして人前で見せる。評価を得る。でも、それらはどこに価値があるのかと言うと、その道中そのものが価値なのだと思います。マジックをすることで、面白く、楽しく、あるいはまた苦しく、困難なことを数々乗り越えて行く。それらをひっくるめて自分の人生として楽しむことが大切なのではないかと思います。

 

 例えばマジックのコンテスト一つを取って見ても、入賞するかしないかは当人にとっては重要なことではありますが、当人の人生を長い目で見たなら、入賞したかしなかったかはあまり重要なことではないかも知れません。むしろ、その時その時、自分がどんなことを考えたか、誰を知り合ったか、どんなマジックを熱心に稽古していたか、それらすべてをひっくるめて、そこに自分が居合わせて、生きて来たことのほうが重要なのです。

 コンテストで入賞を手に入れた人は、ひとまず目的を果たしたことにはなりますが、入賞しなかったからと言って、何も手に入らなかったわけではないのです。日々練習する中で、人と知り合い、工夫し、新しい発見をし、技を手に入れる。これらは自分を大きくし、強くします。一つとして無駄はないのです。但し、それを自覚して、生かしているかどうかが大切です。漠然と流されていてはすべてが消えて行きます。

 「往く道に花あり」とは、目的を追い続けること自体は立派なことなのですが、そこしか見ていないあなたは、既に人に流されているのかもしれません。目的ばかり追わないこと。答えは一つではないのです。実は答えはあちこちにあるにもかかわらず、あなたは答えを見ようとしていないのかもしれません。

 道の傍らにひっそり咲く雑草の花も、やはり花なんだと、ただそれだけのことに気づくかどうか。案外それができるようでできない。何でもないこと、馬鹿みたいなことに気づくことが実は難しいことなのではないかと思います。自分自身が、花を花と気付くかどうか、そのことのほうが、コンテストで入賞することより、こののち、自分自身大きくし、心を豊かにします。芸能を愛するお客様と言うのは、有能なマジシャンよりも、人の心を救ってくれるマジシャンを求めているのではないかと思います。

 いや、いや、私も大きなことは言えません。ただそれだけのことがわからず、長いこと足踏みしていたのですから。自戒の意味も込めて、この言葉を書かせていただいています。