手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

60年前の初恋

 このところ昔のことを思い出します。それもさほど重要でもないことが頭に浮かんできて、一度その情景が思い出されると、しばらく気持ちがそこから離れません。

 この話は初恋だったのかどうかも今となっては判然としません。私は幼いころ、大田区池上の一ノ蔵と言うところに住んでいました。池上本門寺の東側にある町で、池上から一番遠い町でした。中心街に出るときは、池上街道まで歩いて出て、そこからバスに乗って大森まで出ました。不便な場所でしたが、閑静な住宅街でした。私の家は大きな屋敷の一部を間借りして住んでいました。

 家主の家には年一つ下の男の子T君が 住んでいました。T君とは毎日一緒に保育園に行っていました。そのT君の家の親戚が庭続きで隣に住んでいて。恐らく私より二歳下でS君と言う子供がいました。S君の家はとても広く、昔農家だったようで、畑も残っていました。お爺さんがいて、なかなか口やかましい人で、庭に子供が入って来るのを嫌がりました。ところが、私がそのお爺さんの孫であるS君と相性がよくて、S君が私によく懐いて来るので、お爺さんは私だけは例外に家の広い庭で遊ばせてくれました。

 私は子供でしたから世間のことは知りません。間借り人にもかかわらず。保育園に行くときには家主のT君を引き連れて行き、家に帰ると、隣の地主の孫のS君を子分に従えて、T君と三人で、広い庭を自分の家のように勝手気ままに遊んでいました。庭には大きな琵琶(びわ)の木があり、そこに上ってよく琵琶を取って食べました。

 何年か経った頃母親が昔を思い出したように、「あの家で、家に上がっても文句を言われず、庭で泥遊びしても何にも言われなかったのはお前だけだったよ」。と言われました。T君もS君も、私の遊び方が面白いらしく、どこでもくっついてきました。当時はテレビで月光仮面が流行っていて、ガキ大将はみんな首に風呂敷を結び付けてマントにしていました。私もいち早くそのファッションを取り入れていました。T君もS君も私をまねて、首に巻いて、三人揃ってマント姿で本門寺まで遊びに出かけて行きました。

 私は、二人がマントをしていてはリーダーである私が目立たず、困ったなと思っていると、親父の知り合いが、五月の節句に兜飾りを送ってくれました。これだ、これこそリーダーにふさわしいものだと私はそれをかぶって遊びに行きました。ところが遊んでいる途中で母親がやってきて、兜をはがし、頭を叩かれました。これは納得がいきません、私の祝いにくれた兜を私がかぶって、戦争をしているのに引っ剥がす親がどこにありますか。家に帰って散々文句を言い、その後も度々兜を持ち出しましたが、すぐに見つかって頭を叩かれました。せっかく仲間にうらやましがられていたのに残念でした。

 

 さて、とりとめのない話が続きますが、保育園に行くと、S子ちゃんと言う美人の女の子と友達になりました。目鼻立ちの整った日本人形にような美人でした。但しS子ちゃんは髪の毛の発育が悪く、薄毛で天然パーマのようにポヤポヤとした毛をしていました。それがためにS子ちゃんはみんなから「はげ、はげ」とからかわれました。

 この時、私が、義侠心からか、あるいは器量のいいS子ちゃんに惚れていたからか、「S子ちゃんははげではないよ。少しは毛があるよ。女の子を悪く言ってはいけない」。と怒りました。時に、私はS子ちゃんのことで喧嘩をすることもありました。私は痩せて、小柄で、ひ弱な子供でしたが、向こうっ気が強く、先制パンチをすると、相手は5歳の子供ですから大概一発で泣いてしまいます。

 すると先生に怒られて、叩いた相手に謝れと言います。私は、「相手がS子ちゃんの髪の毛を馬鹿にしたから怒ったので、相手がS子ちゃんに謝らないなら、自分も謝らない」。と言いました。先生は私の主張に妙に納得して、話はそれで終りました。

 こんなことがあって、S子ちゃんは私から離れなくなりました。何かあったら私が守ってくれると思ったのでしょう。風呂敷を巻いた三人組の行くところに必ずS子ちゃんもついて来るようになりました。S子ちゃんも三人組と同じように首に風呂敷を巻きたがりましたが私が、「テルテル坊主みたいになるからやめたほうがいい」。とアドバイスをすると、素直に風呂敷はあきらめました。男の子供は泥遊びをよくしました。雨上がりの水たまりで堤防を作ったりして遊びます。男の子は大喜びですが、どう見ても育ちのよいS子ちゃんのすることではありません。綺麗なスカートがドロドロになります。それでも一緒になって喜んで遊んでいました。

 遊んだ後は、手をつないで、S君を母屋にまで送り、それからS子ちゃんを家まで送りました。S子ちゃんの家は一ノ蔵の通りに面していて、家は日本建築ですが、入り口の脇に洋間が突き出ていて、そこが応接間になっていて、ピアノがありました。古い家でしたが、子供が見てもいい家でした。

 これも後で母親から聞いた話ですが、「この家が子供を家に上げることはなく、中に入ってお菓子を貰ったり、派手に遊んでも苦情を言われなかったのはお前だけだよ」。と教えてくれました。家には幼い双子の妹がいて、S子ちゃんと同じく静かな女の子でした。この三人が私と遊ぶときには歓声を上げて喜びました。それを家のお母さんはにこにこ笑って何も苦情を言わずに見ていました。きっと三人は私が来た時だけ大声ではしゃいだのでしょう。お母さんにはそれが嬉しかったのだと思います。

 その後、私が保育園に行くときは毎日、T君と、S子三人で出かけました。そんな私の姿を見て、近所の米屋のY次郎は、「女や年下とばかり遊んでやがって男らしくないぞ」。と寄って来てからかいました。Y次郎は体も大きく、喧嘩も強そうですが、別段悪い奴ではありません。私が「皆に虐められるといけないから守っているんだ」。と言うと、あっさり納得をして、その後は何もちょっかいを出さなくなりました。

 ほどなくして、私は一ノ蔵から引っ越しをしました。同じ池上でしたが、第二京浜国道に近い家を間借りして住むことになったのです。このころが私の母親の生活が一番苦しいときだったようです。私は、引っ越した先でまた仲間を作って遊んでいました。以来一ノ蔵とは縁が無くなりました。

 何という話ではありません。それがこのところ無性に思い出されます。S子ちゃんを連れて、椎の実を取りに行ったり、ザリガニを取りに行ったり、手をつないで帰る道々で大きな声で歌を歌ったり、何でもないことがふと思い出されます。

 いつでもS子ちゃんは楽しそうでした。朝、保育園に行くときに私の家に寄りますが、「今日はどんな遊びをするのか」と、目を輝かせてやって来ました。私もいつしか、どうしたら彼女を喜ばせることができるかと考えて、この期待に応えなければいけないと、いろいろ遊びを工夫するようになりました。このころから私は、自然自然に遊びをプロデュースする気持ちが芽生えて来ていたのかも知れません。嫌々、そこまで考えて生きていたわけではなかったと思います。

 

 今も、舞台の上で、蝶を飛ばしている時など、ふと、お客様の顔を見ると、まるで子供のように目を輝かせてご覧になっている顔が見えます。それを見ると、私はふと、「この顔はるか昔、どこかで見た顔だったなぁ」。と思いつつ、ついぞ思い出せなかったのですが、60年前を夢想しているうちに、「あぁ、そうか、S子ちゃんと遊んで、手をつないで帰ってくる時に、S子ちゃんはこんな顔をしていた」。と思い出しました。

 思えば、人が、憧れとも、愛情とも、喜びともつかない、全てがないまぜになったような表情を見せてくれるのを期待して、ずっと60年間、どうしたら人が喜んでくれるのかを模索してきたのが私の人生でした。

 その後、S子ちゃんとも、T君ともS君とも会うことはありませんでした。今となってはすべて夢の中の出来事です。昭和34年、5歳の時のことでした。