手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アメリカ武者修行その2

 さて前回は、アメリカに行き、マジックキャッスルの入り口まで来て、紙面が終わってしまいました。私の文章は毎回、原稿用紙6枚ですので、やむなく切りました。

 マジックキャッスルは、ハリウッド通りに面したチャイニーズシアターを正面に見て、その真裏にある、小高い丘の上にあります。もとは富豪の邸宅だったようですが、それをかつてのオーナー、ビルラーセンが借りて、弟のミルトラーセンと一緒になって、日曜大工をしながら、部屋の間取りを変え、調度品や、家具などを買いそろえ、今の形にして行きました。

 ラーセン家は父親のビルラーセン(二代目と同姓同名)が昔からロサンゼルスに住み、アッパークラスを相手にパーティーで活躍し、それなりに知名度と、財産を作りました。初代はドイツ系アメリカ人で、その縁かどうかは知りませんが、二代目の奥さんアイリーンさんはドイツ人です。

 これはあまり公にできない話で、私は、こののち私のマネージャーになる、アーノルドファーストさんから聞いた話です。このことが真実かどうか、二代目ビルさんに聞いたこともありましたが、穏やかで何でも話してくれるビルさんでも、あまりその時代の話はしたがらなかったのです。

 実は、第二次大戦中、ドイツ系アメリカ人はアメリカ国内でひどい差別を受けました。恐らく初代のラーセンも、いろいろ嫌がらせをされたりして、随分仕事を減らしたのでしょう。しかし、ドイツ系のアメリカ人は強い結束を持ち、仕事を融通し合うなどして、周囲のドイツ人を助け合ったのです。ウォルトディズニーなども同じドイツ系の仲間だったと聞きます。

 さらに、日本人、イタリア人も同様に差別を受け、(石田天海師は、戦争中、戦後しばらくの間は中国人と称して、テンハイと名乗って、中国服でマジックをしていました)。彼らは当時の枢軸国の仲間のよしみで、地下組織の中で助け合ったと聞きました。天海師と、ラーセン家とが微妙なつながりを持っていたこと、またその後に島田氏につながる日本人との親密な付き合いは、既に戦時中から始まっていたのではないかと推測します。

 戦後、差別が無くなっても、その後のラーセン家が豊かであったとはいいがたかったでしょう。二代目はマジシャンをやめ、他の仕事についていたようですが、ある日、マジックを見せるサロンを作ろうと思い立ちます。ホテルや、集会場、劇場などを使い、多くの支持者を集めて成功し、やがてキャッスルの設立を思い立ちます。

 私は、ラーセンがキャッスルを作る動機については、初めから、今の建物が念頭にあったのではないかと思います。空き家になっていた今の建物を、毎日眺めていて、ここがマジシャンの殿堂になったらどんなにいいだろうと考えていたのではないかと思います。 やがて、交渉をして、安価に借り受け、原形を生かして、金持ちの社交場に作り替えたのです。その後のラーセンの人生は、マジックキャッスルを維持するために全てが捧げられました。何十人もの料理人や、ウエイター、事務員と、出演者のギャラ、それを毎週毎週支払続けなければなりませんでした。常に資金不足で、会員の中の有力者や、企業家を回って頭を下げて、資金援助を受ける日々だったようです。まったくビルとミルトの人生は、夢を現実にして、維持して行くことがいかに困難なことなのかを示しています。

 それでも出来上がったキャッスルはまるで夢のお城であり、これぞマジックを見るための劇場でした。(但し、初めはメイン劇場はなかったのです。少し資金ができたのち、たまたま島田氏がロサンゼルスに住むようになってから、劇場の必要性を感じ、新たに建て増しをしたのです)。初めは、サロンとクロースアップを見せるためのお城だったのです。

 ここにはマジック関係のライブラリーがあり、映像も保管されています。マジック関係者なら誰でも見られます。かつてはジニーと言う雑誌をここで発行していました。更に年に一回、マジックオブザイヤーのパーティーが、ビバリーヒルズのホテルで開催され、優れたマジシャンを表彰しています。また年に一回、ロサンゼルスの劇場を借りて、It's Magicと言うタイトルで、マジックショウを開催しています。(弟さんのミルトさんが主宰していました。今は活動休止中かと思います)。

 何にしても、マジックキャッスルは、マジックを企業化して成功し、50年経った今もなお活動を続けている、稀有な存在なのです。

 

 さて、ロビーから「オープンセサミー」と言って、秘密の扉を開けて、中に入ると、広いラウンジがあり、長いバーカウンターがあります。ここから二階に上がると、広いレストランがあり、建物は左右に分かれて、西側は、ステージと、サロンの部屋、東側は、クロースアップの小部屋がいくつかあります。入り口で、当日の出演者の書きブレをもらい、見たい内容をチェックします。夕方6時くらいからショウが始まります。

 私はその晩、クロースアップを二人見て、サロンのマジシャンを二人見て、ステージマジシャンを三組見ました。クロースアップは当時、日本ではまだ海のものとも山のものとも判然としなかった時代でしたので、どれも面白いと思いました。何より、観客が、出演者を盛り上げようとして、積極的に支援する姿に驚きました。

 出演者にとってはやり易いいい観客です。もしこの観客を前にして、受けなかったのなら、絶対にプロマジシャンになってはいけません。才能がないのです。また、あなたがアマチュアで予想以上に受けたとしたら、それだからと言ってプロになることはしばらく思い留まったほうが良いでしょう。他の土地のアメリカ人はマジックに対して、もっと冷淡で、もっと意地悪です。アメリカ人皆いい人と思うのは禁物です。いい人、悪い人は日本人と同数います。ここにいる観客は、アメリカ人の中でも恵まれた人達なのです。

 その日の晩に見たマジシャンで心に残る人は誰かと言えば、残念ながら、あまり大した印象はありませんでした。そのことが私にとって光明を得た気持ちでした。もし今ここに私が出演したら、きっと今晩のショウの中では一番受けるだろう。と思いました。

 そんなことよりも、ショウを終えて、ラウンジに行くと、そこは絵にかいて残しておきたいと思うほど綺羅星のごとくスターがいました。部屋の隅にはダイバーノンが座る席があり、実際本物のダイバーノンが座って、煙草をふかして、スコッチを飲んでいます。近くにラリージェニングスや、ジョンカーニーがいます。マックス名人もいます。この日は来ていませんでしたが、島田師や、マークウイルソン、チャニングポロックなども来ます。こんな中でみんながわいわい言ってマジックの話をしています。

 若い自分が、この仲間に入れたと言うだけで、ボーっとのぼせが来ました。人を感動させるのは言葉ではありません。現実を見せれば、若い人は百万の単語を一瞬に理解します。理屈ではなく、この場に入りこめたなら、誰でもマジシャンになって良かったと思うでしょう。それを味わえたことが何より幸せでした。

 高木先生の一行が先に帰り、私は深夜まで遊んで、さて、帰る段になった時に、マックスさんが、私の和服姿を見て、「黒人に絡まれると危ないから」と言って、ホリディインまで付いて来てくれました。マックスさんの心配りに感謝しましたが、よく考えてみれば、和服姿の私と、悪魔顔したマックスさんと二人で暗い夜道歩いていたら、我々が襲われる心配よりも、道行く人が逆に引きまくったでしょう。いい思い出でした。