手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アメリカ武者修行その1

 私が初めてアメリカに行ったのは24歳の年でした。一人で行くのも、心もとないので、高木重朗先生にお願いして、ツアーに同乗させていただきました。場所は、ロサンゼルスから少し離れた、パサディナと言う町で開催されるIBMの大会を見に行くツアーでした。このツアーは十数名のマジック愛好家と一緒に行動するため、不安はありませんでしたが、初めの一週間はツアーで行動を共にしましたが、その後をフリーにしておいて、あちこちアメリカを見てやろうと思いました。帰りは無論一人で帰ります。

 そのツアーですが、高木先生は何から何までツアー任せで、食事もいい所で食べますので、随分費用がかかりました。一週間のツアー料金が、45万円でした。1ドル280円でしたから、これくらいの出費はやむなしと思っておりましたが、なんせ、私はキャバレーに出て、一晩1万2千円の収入でしたから、1か月フルに出演しても、45万円は稼ぎ出せません(当時の勤め人の月収が7万円くらいです)。

 私は25万円を現金で支払い、あとは銀行から20万円を借りました。ツアーから帰ったあと、毎月2万円返済しなければなりません。一週間海外旅行して、一年間返済するわけです。当時は海外旅行はとてもぜいたくだったのです。

 ドル280円と言うのは、仮に、レストランで、普通に10ドルの食事をしても、2800円かかります。東京のレストランの定食が500円しない時代にです。とりあえず、現金で5万円の小遣いを持って行きましたが、よほど注意して使わないと、たちまち消えてしまいます。高木先生はかなり贅沢な食事をしますので、べったり行動していると、金はどんどんなくなります。初日は、ハリウッドのホリデイインの宿を取り、夜にマジックキャッスルに出かけました。7時にロビーで待ち合わせをして、それより前に食事を済ませようと、ハリウッドの町に一人で出ました。なるべく高木先生に離れて行動をとらないとこの先生きて行けなくなるためです。

 ハリウッドと聞けば誰もが知る有名な町で、パリのシャンゼリーゼのような美しい通りかと思っていると、かつての浅草並に汚れていて、辻々に乞食がいて、黒人が用もなく立っています。商店街もパッとしません。しかも、西部劇に出て来るような。街道筋の表だけが賑やかな通りで、裏に回ると突然寂しくなります。ひたすら一本の道筋がずっと続きます。その道を少し行った先にハリウッドマジックと言うマジックショップがあります。

 古い汚い店でしたが、行ってみると若い店員が何人かいて、愛想よく迎えてくれました。一人は金髪で、典型的なアングロサクソンで、日本文化が大好きだそうです、彼女がいて、日系3世だそうです。たくさん日本のマジックが知りたいと言っていました。まさに私の友人となるべき人でした。彼は来週からマジックキャッスルに出ると言っていました。私は来週までロサンゼルスにいますので、きっと見に行くと言いました。これが私とジョナサンニールブラウンとの出会いです。わずかな会話から40年以上の付き合いが始まったのです。

 

 ショップを後にして、とにかく何かを食べようと、汚い町の中で、とにかくましなレストランを探します。

ハンバーガーサンドの定食が7ドルと言う店を探しました。これはいいと店に入ります。しかし、せっかくアメリカに来て、ハンバーガーもつまらないと思い、ステーキサンドにしようかと考えあぐねていると、黒人の若いお姉さんが注文を聞きに来ました。

 私はとにかく空腹でしたので、ハンバーガーサンドと、ステーキサンドの両方を頼みました。するとお姉さんは、あたりを見回し、「誰か仲間が来るのか」と聞きました。私が、「両方自分で食べる」と言うと、「それは無理だ、どちらかにしたほうがいい」と言います。この時まで私は、アメリカのハンバーガーが、日本のマクドナルドのサイズと同じだとばっかり思っていたのです。

 ステーキサンドを頼むと、やってきたのは、大き目な丸いパンに300グラムくらいのステーキを挟んであります。無論挟みきれませんから、左右からはみ出ています。ポテトフライが山のように脇に積んであり、コーヒーがついていました。サラダは自分で好きなだけ取ってきていいそうです。7ドルは決して安い定食ではありませんが、日本の2倍の量を見て、これは安いと思いました。私はこの時、「アメリカとはまさに私にとっ て理想の国だ」。と思いました。

 私は子供のころから、ステーキをこれ以上食べられないと言うくらい食べてみたかったのです。300グラム程度の肉は何のことはありません。それでも、これにハンバーグサンドが来たなら、一緒に食べるのは無理です。お姉さんの親切に感謝しました。

 1ドルのチップを置き、ホリデイインに戻り、私は和服に着かえます。紋付羽織袴の礼装です。この姿でマジックキャッスルの入り口を通るのが今回の私の旅の目玉企画です。高木先生にくっついてゆくと、入り口にダイバーノン師が座っていました。無論高木先生はバーノンさんとは親しく挨拶を交わします。私も挨拶をすると、服装から目を輝かせて、喜んで迎えてくれました。

 さて、入り口を通過しようとすると、受付のお姉さんが私を呼び止めます。何のことかわかりませんが、よく聞くと、「私がノーネクタイだから、入れない」と言います。そこで、「いや、これは日本の正装だ」。と言いましたが、入場を拒否されてしまいました。どうしようか迷っていると、そこにマックス名人(マックスメイブン)が通りかかりました。

 マックスとはこの時が初対面ですが、変わった髪形をしているので目立ちました。訳を話すと、彼は女性に、「この服装は、相当に身分の高い人が着る服装です。ヨーロッパでいう、テールコーツ(燕尾服)です。むしろ丁重に扱わなければいけません」。と口添えしてくれました。そして、あっさり通過させてくれました。これが私とマックス名人との出会いの始まりです。それから40年の長い付き合いが始まりました。

1979年の夏の話です。