手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

企画書は創作発表の場

 このところ数日はずっと企画書作りをしています。こんなふうに書くと、私を知る多くの人は、「藤山さんが企画書を書くと言うのは、あまりイメージに合いませんねぇ」。と仰います。いえいえ、私は企画書を書きます。そして道具見本も作ります。

 グラインダーで金属を削ったり、木工を丸のこで切って、やすり掛けして、木を組んで木ねじ打ちをして、小道具も、大道具も作ります。私は、ほとんど既成のマジック道具を使いません。リンキングリングであっても、ゾンビボールであっても、自分の欲しい寸法、金属の輝きを重視して、職人に注文して作ります。

 すべて自分が欲しいと思うものは、自分でデザインします。そして自分で試しに作ってみます。結果、良さそうなら、指物師や、家具職人に頼んで、本物を作ります。

 こんなことをもうすでに45年も続けています。初めの頃に素材を買っていた商店の親父さんや、道具を作ってくれた職人さんは、ほとんどもうこの世にいません。二代目さん、三代目さんに代替わりしています。私は人を介して、イメージの中にあった道具を一つ一つ制作して行って、1分、2分と手順を作って来ました。

 

 私は、依頼されれば2時間でもショウができます。それらの小道具、大道具はすべてオリジナルや、アレンジして作ったもので、既成の道具はほとんどありません。すべて私のイメージ通りに作ってあります。

 それをDVDやビデオに収めて、写真を撮って、クライアントさんにお見せして、自身のショウを売り込むのですが、ただ手順を見せて仕事がとれるかと言うと、そうではありません。相手が望む、手妻、マジックでない限り、ショウを買ってはもらえないのです。つまり、出来上がった手順を更にいろいろ工夫を加えて、相手の希望に沿うように作り直さない限り、相手の望むマジックにはならないのです。そこで、企画書を書く才能が求められます。そのために企画書が必要です。

 

 私のように、古典奇術を仕事とするものでさえも、頼まれる内容は千差万別で、クライアントさんの好みが、「より古風なもがいい」。と考えているのか、「伝統の中にも新しいアイディアを加味したものが欲しい」。と考えているのかによって、演じ方も、作品も、売り込み方も変わります。

 例えば、蝶の演技なども、より歴史を強調したいのであれば、生演奏を使って、蝋燭(ろうそく)灯りで演じます。まったく江戸時代そのものの演出を取り入れるわけです。蝶を飛ばしながら、客席を回る際にも、面(つら)明かりと言って、大きな蝋燭を先端に据えた、長い棒をアシスタントに持たせて、私の前後から蝋燭灯りでついてきてもらいながら蝶を飛ばします。実際こうして蝶を飛ばすと、演じる私自身が江戸時代に入り込んだような錯覚を覚えます。とても幻想的な世界です。

 逆にモダンに演じたいなら、照明に凝って、サスライトなどを生かして演じます。演技も口上をほとんど交えず、音楽で進行します。こんなことを提案すると、先方はイメージができて、交渉はスムーズに進みます。

 

 私は常々思いますが、自分の演技を仕事に変えて、収入にできるかどうかは、企画力にかかっていると思います。無論、企画や売り込みの巧い事務所に所属すれば、タレントは何ら売り込みに関与しないで、数多くの仕事が舞い込むわけです。

 しかし現実には、そんなにうまくマジシャンを売り込んでくれる事務所があちこちにあるわけではありません。マネージャーを雇うとしても、そうそう才能があって、企画力があってと、都合のいいマネージャーが存在するわけではありません。

 多くのマネージャーと称する人は、ほとんど、「誰か有名人に頼って、人気のおこぼれで生きて行こうとする」人がほとんどです。マネージャーだけではありません。プロダクションと称する事務所さえも、一人のタレントの才能や、人気に寄りかかって会社ごとたかって生きて行こうとする人たちが大勢います。

 自分がうまく知名度を上げたとしても、すぐさま大きな事務所から所属の話が来て、有能なマネージャーが寄ってきて売り込みや、マネージメントを申し込んでくる、と言うことはあり得ません。まったくないとは言えませんが、多くの場合、寄ってくる人たちは、9割方タカリだと思って間違いありません。

 

 芸能と言う世界は、努力をしないで金を稼ぎたいと思う人の集団です。芸人もそうなら、事務所もそうです。才能のない人が、口先一つでタレントに近づいて来るのです。無論優秀な人もいます。然し、優秀な人は優秀なタレントにしか付きません。そこらのポット出の芸人に優秀な人がつくことは100%有り得ないのです。

 それがわかったら人を頼らないことです。自分で必死になって、企画書を書くことです。誰もあなたをスターにしてはくれません。黙っていても売れないし、収入を提供してくれることもあり得ないのです。どう売り込んだら、相手が納得して、いい仕事に結びつくかを真剣に考えて、自分の幻想の世界を紙に描き出してして提出するのです。そうした才能があなたにあってもなくても、とにかくこの道で生きて行きたいと思ったら、企画書を書くほかはないのです。

 

 でも、道具見本を作ったり、創作手順を作ったり、それを企画書にする努力を続けていると、徐々に、人がマジックに何を求めているのか、と言う、人の気持ちが見えてきます。自分がしたいマジックをしていた時にはついぞ見えない世界です。カードや四つ玉を演じて、コンテストで優勝した。なんて言う人も、実際には、自分の好きなマジックを、同じようにカードや四つ玉の好きな審査員が評価してくれたわけですから、全くの客観的な評価ではないように思います。コンテストと言うのは、いわば、自分を鏡に映して、自己評価しているのと同じ結果にしかなりません。

 本当に自分の演技が多くの人が望んでいるものかどうかを知りたいのなら、ピエロや、ジャグリング、お笑いなどの雑多な芸能に混ざって評価を受けるような、雑芸のコンテストに出るべきで、マジックのコンベンションの、部門部門の評価を得たとしても、まず外の世界に出て評価の対象にはなりません。

 四つ玉も、カードも、ウォンドも、シンブルも、実際多くの一般の観客にはそんなに興味の対象にはならないものです。コンテストで入賞することはとても価値あることではありますが、マジシャンとして社会で生きて行きたいと望むなら、いったんコンベンションから離れて、頭の中をニュートラルに切り替えて、人の役に立つマジックを考えなければなりません。企画書を書くということは、人の求めているマジックを考えることです。様々マジックを工夫して、想像して作り上げた自身の芸能と、観客の求めるマジックとの接点こそが企画書なのです。

 私は、今その作業をしています。そして、プロのマジシャンで生きて行くためには一生この行為はついて回るのです。