手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アマチュアマジッククラブ4

 私は、アマチュアマジシャンが少しでも活動がしやすいようにと、SAMの組織を起こし、毎年日本各地で世界大会を開催し、機関誌を発行し、各支部にプロマジシャンを送り込み、懇親会を開いたり、レクチュアーをしたり、とプロとアマチュアが一体になった活動を始めました。1990(平成2)年のことです。

 思えばこの時が私の舞台活動の絶頂期でした。昭和63年に文化庁の芸術祭賞をもらい、仕事はこなしきれないくらいありました。チームは、株式会社にし、家は高円寺に土地を買い、ビルを建てました。念願の娘も生まれました。その上でSAMの組織です。

この時は自分にできないことは何もないと思えるほど、何でも順調に行きました。

 

 そうした流れの中、多くの人がSAMに加入して来てくれて、一躍大きな組織ができました。何もかもうまく行っているのですが、今から思えば、数ある会員の中にはおかしな人も結構いたのです。

 あるマジッククラブの会長さんのお話をしましょう。Aさんは、ある地方でマジッククラブの会長をしています。会うと愛想のいい人で、腰が低く、東京に来るたび地元の饅頭などを持って来てくれます。体格もよく、一見すると、会社経営者、地元の市会議員と言っても通る人です。コンベンションでは毎回熱心にレクチュアーを受け、メモを取っています。何ら問題とする人ではありません。ただ、唯一、Aさんのクラブから、SAMに加入する人が一人もいません。Aさんにそのことを尋ねると、「みんな考えが古くて、外に出たがらないのです」。と言います。

 

 ある時、地方の市民会館に出演する機会があり、そこで、Aさんを思い出し、手紙を書きました。「いついつ、あなたの町の市民会館に出演します。もしあなたのマジッククラブが希望するなら、ショウの終わった後、レクチューアーをいたしますが、希望されますか」。答えは、「無理」。と言うことでした。

 当日、市民会館に出かけると、早くにAさんが、楽屋にやってきました。土産の饅頭を前に出し。「せっかく先日、レクチュアーのお話を頂いたのですが、会員が集まりません。残念ですが、今回は、ご挨拶だけで、ショウを見せていただいて帰ります」。

 ここまでの話なら、Aさんは誠に紳士です。しかし、ショウを終えると、楽屋に、地元のマジックラブの会員が3,4名、やってきたのです。「先生、来るなら来ると教えてください。もっと宣伝して、仲間を集めましたのに」。「いや、今日来ることはAさんに随分前から伝えてあります。終わった後にもレクチュアーを希望されるなら、致しますと伝えました」。「そんな話は一つも聞いていません。もしレクチュアーしてくださるなら、みんな喜ぶと思います。何でしたら、今からでもみんなに声をかけて、7,8人でも集めましょうか」。「それは・・・・・」。と言いかけて、言葉が詰まりました。

 

 この話がどういうことかお分かりになりますか、Aさんは、私にこの町に来てほしくないのです。来ても、ショウをしたならさっさと帰ってもらいたいのです。Aさんは、SAMの組織のことも、毎回送られる情報誌も、会員にほ話をしていません。東京のマジック大会に行った。藤山に会って写真を撮った。そんな話はしますが、会員がSAMに加入したいと言うと、「まだ無理だ」。と言って取り合いません。

 Aさんはマジックの普及活動をしている人ではなかったのです。Aさんはすべてのマジックの情報を止めてしまう人で、少なくとも地元ではお山の大将になるべく、全く人も情報も排除していたのです。たまたま、私がこの町に来たのは、Aさんにとっては疫病神(やくびょうがみ)で、それ故に、朝に楽屋にやってきて、饅頭を置き、暗黙の内に「余計なことはしてくれるなよ」。と念を押して帰って行ったのです。

 私はこの時までは、こうした因循姑息な人を見ると、何がなんでもその流れを変えようと、宣伝活動をして、閉ざされた人たちを開放しようと(当時は自分の活動を、そんな風に考えていました)考えました。そして、多くの会員を拡張しようと努めました。然しです。私の理想の元に、情報を提供し、SAMに加入を呼びかけて、レクチュアーしたとして、先々まで、この人たちの面倒を見られるか、と言えばそれは無理でしょう。

 仮に今回、有志を集めてレクチュアーをしたとしても、その後、会員とAさんとの間で一波乱あるはずです。更にこの先、指導を依頼されたとしても、東京とこの町の交通費だけでも、おそらくこの町の会員では負担できないはずです。

 ここで私は、日本のマジッククラブの改革を、はたとためらってしまいました。自分にとって良かれと言うことが、本当に相手に良いことなのか。それよりも、私が時間と費用をかけて取り組む行為として、今していることは絶対に必要なことなのか。そう思うと、私は改革の手を緩める以外ないのではないかと思いました。

 

 実際、当時の私は、舞台で手一杯な状態でした。SAMも、コンベンションの出演者を決める、海外のゲストとの折衝をする。会員の名簿の管理をする(会員が700人もいると、毎月何人か入会し、転居し、死亡する人がいます。更にそれを英文に書き換えてアメリカに報告しなければいけません。その管理は簡単ではありません)。二か月に一回機関誌を発行する。その原稿のほとんどは私自身が書きました。

 毎晩ショウを終えて帰ってくると、深夜12時過ぎから原稿書きをします。当時はコンピューターは普及しておらず、ワープロを使っていました。書くことは嫌いではありませんでしたが、出来れば仕事から帰った日くらいはゆっくり休みたいと思いました。

 頼まれれば近隣の都市ならレクチュアーにも出かけました。すべてを自分のショウ以外の時間にするのですから、私の日程は、全く余分な時間がありません。

 始末の悪いことに、平成5年にもなると、不況の風が強まって、仕事が大幅に減りました。今まで私が自由になる交際費があったのですが、全く出ない状況になってゆきます。社員として雇っていたアシスタントも自由契約にしなければなりませんでした。そうなるとアシスタントは仕事のある日にしか来ませんから、これまでの機関紙の封詰めとか、コンベンションの案内状の発送などが滞りました。

 結局その仕事のすべては女房に任せっぱなしになりました。SAMの活動は、ほとんど利益がありません。もとより私が利益を求めてしまったら、会費のすべてをもらわなければ成り立たないのです。当然女房は機嫌が悪くなります。万事休すでした。

 

 あるマジックの会合で、初めてお会いする、アマチュアの女性と同席しました。二時間色々話をしているうちに、その女性が、宴席の終了間際に「藤山さんって、人が言うほど悪い人ではないんですねぇ」。と言いました。「そんなに悪く言われていますか」。「ええ、私の組織の会長さんなんか、例会のたびに藤山さんを悪く言っています。でも、今晩お話をして、すごくまともな人なんですね」。と言われました。

 私自身は身を粉にして、マジック界のために活動していても、それによって会員数を減らしたり、クラブの指導教材の売り上げが減ったりすれば、旧勢力の会長などはきっと私を恨むんだろうなぁ。と納得しました。そしてこの晩、長く話をして、ようやく一人の女性から、まともな人と、評価してもらったことを喜びに感じました。