手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

心の捻じれを解いて行く

 時として私は人のしていることを見ていられなくなります。明らかに間違っていること、明らかに思い違いをしている人、それを見ていると黙ってはいられません。しかし、うっかりしたことは言えません。かたくなに自分を信じている人に、「それは違う」。と言えば、相手は私を逆恨みします。

 人は自分の間違いを反省するよりも、相手を恨むほうがはるかに簡単ですから、言われたことを根に持って相手を恨みます。仮に私の言葉が正しかったとしても、相手は夢の世界の王子様になりきっていますから、今、夢見ている世界を崩されたくないのです。自分のおとぎ話に割り込んできて、自分の間違いを指摘する人はすべて敵です。

 然し、です。相手が自分の世界の中だけで王子様ごっこをしているならいいのですが、多少なりとも私に関わることであったり、マジックの世界では通用しないような行動をした場合、そのまま見過ごすことはできません。

 然し、アドバイスをするにしても、相手を傷つけないように言わなければなりません。これが難しいのです。相手は大人です。しかも、その人が人に教える立場の人であったり、プロになろうとしている人であったりすると、とても言葉を選ばなければなりません。ここに私は苦慮します。

 

 Aさんはマジックの指導をしています。Aさんは私のところに習いに来ます。然し、Aさんのマジックに対する姿勢があまりに拙いので、ついついものを言いたくなります。使ったシルクは丸めてカバンに押し込んだまま、次に習いに来た時には、前回丸めたままのシルクが出てきます。サムチップの中のシルクはサムチップに入れたまま。くす玉は、真ん中の紐が団子状になってしまい、もはや花びらを一つ一つほどくことも不可能なほどになっています。こんな道具の管理をAさんから習っている生徒が見たなら、マジックなんてレベルの低いもの、くだらないものと思うでしょう。

 こんな時にあなたならどうしますか。黙って謝礼だけ受け取ってAさんのすることに目を瞑りますか。あるいは注意しますか。私は、こう話しました。「あぁ、だいぶくす玉が小さくなってしまいましたね。くす玉は、せいぜい10回い使ったら、一度リングから紐を外して、付け直さ感ければいけません。そのままにしまって置くと使えなくなりますよ。私は、こうしてこんがらがった紐をほどくのが得意ですから、取って差し上げましょう」。と、行って、コンパスの針を使って、頑固に絡まった団子状の紐を丁寧に外し始めました。その間Aさんは、「先生そんなこと気にしないでください。後で取りますから」。「いやいや、後でと言うと人はやらなくなります。気が付いたら今やらないといけません。私に気を使わずにお茶でも飲んでいてください」。

 それから私は悪戦苦闘の末に、40分かかってくす玉の団子の紐をほどきました。なぜ私がそんなことをしなければならないのか。それは、こんなくす玉を使っている指導家は指導家ではないのです。やるべきことをしないで、先生と呼ばれたいわがまま者が指導家に成りすましているだけなのです。そのことを自分自身が早く気づいて、日頃の姿勢を改めてほしいから、指導の後に40分時間をかけてくす玉をほどいて見せたのです。

  

 ある大学の学生が、和妻の基礎を習いに来ました。和とは何か、手妻とは何か、それをいくつかの手妻を見せて、基礎を教えてあげようと、またまた、おせっかいをして、学生を呼びました。学生は後輩を二人連れてきました。それが問題です。彼はきっと私の前で彼らに先輩面をするでしょう。彼は私の話を真剣に聞かなくなります。

 とにかく彼は、バッグから舞台で着る衣装を出しました。驚いたことに、着物も袴もぐるぐる丸めてあります。これでは袴の折り目も何もあったものではありません。

 私は着物の前で正座をし、袴を伸ばし、「着物は一回一回伸ばして、折り目に沿って畳まなければいけません。そうでないとよれよれの衣装を着て舞台に立つことになります。それはとても恥ずかしいことなのです」。と言って、畳んで見せました。

 なぜ私が学生の着る、吊るしの着物を畳んで見せなければいけないのか、正直情けない思いがしました。然し基礎を教えると言ったのですから、ちゃんと教えなければいけません。とても納得のゆかないことではありますが、じっと我慢をして、着物の畳み方、着付けの仕方を教えました。

 それから基礎指導をしました。おしまいに着物を畳むときになったときに、彼は後輩に今着た着物を畳ませようとしました。基礎を習いに来た学生が、子分を連れてきて、子分に着物を畳ませているのです。そこで私が「君が着たんだから君が畳みなさい」。と言いました。すると彼は畳めません。仕方なくまた一から畳み方を教えました。しかし彼は上の空です。手妻(和妻)をするのに、着物の畳み方は基礎中の基礎であることを理解しません。この時ほど自分が、無理解な人を相手に、無駄な時間を使っていたことを後悔したことはありません。

 こんな学生を初めから相手にすることがいけなかった。と、思う反面。少しでも手妻の良さがわかってくれる学生が現れたならいいのだが、と思う気持ちがないまぜになって私は複雑な思いをしました。

 この人が数年後プロになろうとしました。私は当然反対しました。私が反対しても言うことを聞きません。結局プロにはなったのですが、マジックの技術は低く、センスもなく。結局全く仕事に結びつかず、2,3年でプロを廃業したようです。

 学生がプロになろうがどうしようが私にとってはどうでもいいことです。しかし,少しでも手妻に興味のある人が、良い手妻を演じてくれることを期待して話をしたのですが、効果はなかったようでした。

 善意でことをすると言うことは、すぐに成果を求めてはうまく行きません。穏やかに末永く教えなければいけません。しかし、明らかに無理解な人にはやはり教えてはいけないのでしょう。きっと彼らはいつか自分の間違いに気が付くのではないかと、信じて教えましたが、それは純粋な善意ではありません。

 善意と言いつつ、自身の心の中で、どこか見返りを求めています。わかってほしい、感謝してほしい。そんな安手の見返りを自分の心の中で、ついつい求めてしまいます。そんなことを望んでいる自分自身がとても貧弱に見えます。善意を口にしたのなら、もっとおおらかに、大きく生きるべきなのでしょう。

 私は、人には分け隔てなく付き合おうと思っていますが、5年前から少し人を見て付き合うようになりました。相手の問題が、くす玉の紐の捻じれや、着物の依れなら、すぐに直すこともできます。然し、ねじれや依れの根本的な問題が、心の捻じれや依れであったなら、そう易々とは治りません。自分の人生の残された時間を考えれば、人の心の奥底にある捻じれに関わるよりも、やはりもっと自分自身が本来やらなければならないことにこそ人生を生かして行かなければならないと思います。