手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャン新年会

 今から10数年前までは毎年事務所で1月4日ごろに新年会を催していました。弟子や、アシスタント、生徒さんなどがお正月に尋ねてきますので、全部まとめてその日に新年会をしたのです。そこにマジシャンや、お笑い芸人、邦楽の先生方など集まり、総勢60人くらいが集まりました。午後1時から夜10時くらいまで、ずっと人が出入りして、とても賑やかでした。お笑いは、ナイツやねづっちもやってきました。

 それが4年前、母親が入院してから生活が変わりました。老人介護です。私の母親は上板橋に住んでいました。高円寺と上板橋はかなり離れているように思えますが、実は、環七通りを車で行けば20分で行けます。そこで、初めは毎週二回家に行って、昼食を作って、掃除をして、話し相手になっていました。

 しかし、89歳になって、いよいよ介護が必要になり、老人施設のマンションに入れました。これがいろいろと費用が掛かります。そこでやむなく事務所を閉鎖しました。環七通りに面して、広々として明るい事務所だったのですが、家賃を浮かせて母親の介護に充てるためのやむなき判断でした。

 

 ここの事務所と私の自宅は歩いて30秒です。事務所は私の家の二階に移しました。私の家は四階建てです。一階がアトリエ兼稽古場、二階が事務所。三階四階が自宅です。こんなふうに書くととんでもなく大きな家のように思えますが、各階ワンルームです。まるで鉛筆を立てたような細い家です。

 さて3年前に母親がなくなり、ひとまず介護の用事はなくなったのですが、もう一度事務所を表通りに移すことには躊躇しました。これまでガンガン前進することのみの人生だったのですが、初めて自身の年齢に気づいたのです。もうあまり無理をせずに、稽古場と事務所と自宅を持っているのだから、これで満足して、与えられた条件の中で生きようと、自身としては誠にしおらしく、つつましく生きて行く決心をしたのです。

 それはいいのですが、中断していた新年会ができません。昨年、稽古場を整理して、スペースを作りました。その上で椅子やテーブルを置いてみると、10人程度は座れます。それなら、今までしていた新年会の半分の人数でやればできると判断しました。

 そこで、今日、1月4日、4年ぶりに新年会を再開します。昨日は、飲み物や料理を買い出しに行きました。寿司や洋菓子も予約しました。若いマジシャンも、昔からの仲間のマジシャンも来ます。ねづっちも来るそうです。やはり賑やかなことは楽しいものです。こんな一日があることが幸せです。

 できれば新年会は毎年やって行きたいと思います。但し、これ以上人が多くなったらどうにもなりません。どこか会場を借りて行うしかありません。しかし、それでは家族的なぬくもりがありません。ごちゃごちゃと人が集まって、世間話をして、適当なときに来て、適当な時に帰って行く、この適当な感覚がないと新年会はつまらないのです。

 突然変異のごとく、私に仕事の依頼が集中して、多忙な人生がやってきて、思いのほか儲かって、社員が増え、家を新築すれば、また大きな派手な新年会ができます。そうなれば面白いのですが、うまく行くかどうかは神のみぞ知るところです。

 但し、これは全く根拠がないのですが、今年あたり、私はもう一度大きな波が来るように思います。なんとなく仕事の流れが上向いていますし、私の周辺もいいことが続いています。大樹の受賞などもその一つです。今までの蓄積を生かして、かなりいい仕事が出来そうです。思えば私は、これまでもずっと幸運の中で生きて来れました。この先もう一つ、二つ大きな成功が来るように思います。そうなれば周囲の仲間にもっともっと福を分けることができます。そうなるように努力をしなければいけません。

 今年一年は波に乗ることを抱負とします。