手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大阪稽古処

 今日は大阪の稽古指導に朝から出かけました。前田将太も一緒です。このところ急激に私のところにマジックや、手妻を習いたいと言う若手が来るようになりました。やはり基礎を積んで、マジックをするのと、ただやみくもに道具を買い集めてマジックをするのとでは演技の仕上がりに大きな差が出ます。

 きっちり基礎から習って、一つのことを3分なり5分なりの手順として習うと、マジックの厚みが違ってきます。特に手妻(和妻)は元となる考えをわかって演じていないと、演技そのものが全く方向違いなものになってしまいます。

 私はこれまで折あるごとに手妻の考えを伝えてきましたが、残念なことに、多くのマジック愛好家は種仕掛けにしか興味を示さず。何を理解して、どう演じなければならないかについて少しも考えようとはしませんでした。私のしていることをビデオで撮って、上っ面ばかり真似をして、それで手妻を演じる技を手に入れたと思い込んで、私の話を聞こうともしませんでした。

 そうした人たちを、私も、追いかけてまで教える気持ちはありませんから、そのままにしていました。ところが、最近はそれではうまく行かないと言うことにようやく気づいたようです。そこで、基礎指導から習おうとする人が増えてきました。良い傾向です。今日も新人が二人基礎を習得するためにやってきました。

 手妻の基礎は、いきなり道具を持って手妻をすることはありません。まず、着物の着方、立ち方、座り方、歩き方の稽古から始めます。まず、舞台上手に待機して、中の舞(ちゅうのまい)という囃子を流しながら、適当なところから歩き初め、舞台中央に立ち、座り、扇を前に置き、両手をついて頭を下げ、顔を上げた時にちょう一曲が終わるように合わせます。その間、歩幅は一定にして、歩くときに腰が上下してはいけません。座るときは、袴が広がり過ぎないように注意して座り、扇を置くときも、両手を置くスペースを開け、両手も、そのあとに顔を近づけるために、両手が顔の邪魔をしないように間隔を取り、そこに頭を下げます。

 まずこれだけでも簡単な動作ではありません。しかし、出て来て挨拶をすると言うことは、手妻師の日常書くべからざる行為ですから、避けて通れません。最低覚えておかなければならないことだらけの動作です。そうした動作を知らずに、手妻の仕事をしている人たちは、いったいどんな挨拶をして、歩いているのか、不思議です。

 

 立ち上がるときは、足がしびれていても、まずつま先立ちになり、しびれを和らげてから、右足が膝立ちになり、次に左足が立ち、腰を持ち上げて立ち上がります。動作としてやってしまえば何でもないことですが、知らないでやれば全く手も足も出ません。一から習わなければ何もわからないことばかりです。

 これらのことが一通りできたとしても、それは挨拶ができたにすぎません。まだ手妻を演じてはいないのです。

 次に、口上の声の出し方の稽古をします。舞台の前口上と言うものを読み上げて、発生から声を出す一の稽古をします。その昔は全くのノーマイクで800人くらいの劇場で口上を述べたわけですから。声を響かせる技術と言うものが必要だったわけです。それを稽古します。なかなか初めは簡単には声が出ません。声は出せても、昔風の語り口にはなりません。やればやるほど難しさがわかります。

 

 さて、ここまで稽古をして、初手の2時間レッスンは終わります。毎回こうした初歩的な動きを練習したり、口上の言い方を練習しつつ、少しずつ手妻を覚えて行きます。簡単なことではありませんが、一度覚えてしまえば、生涯生かすことができ、身のこなしが美しくなります。手妻は種仕掛けを知ることだけではなのです。日本の文化を継承することが手妻なのです。

 そのあたりを理解し始めて、習いに来る人がふえてきた、と言うことがひところを思えば大きな変化です。かつてはただ「古い」、と言われてすべてを否定されていたわけですから、はっきり時代が変わってきています。この流れこそがトレンドであると気づいて手妻を始めた人たちが、上手く育っていってくれることに期待します。

 

 本年は、最終指導は、28日が富士、29日が名古屋、30日が大阪です。大阪指導を終えて、東京に帰ってくればもう一年は終わります。何ともせわしく、あっけなく日が過ぎて行きます。