手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

池上街道

 昨日、大阪のテレビ局から電話がかかってきて、急遽、近々大阪でテレビ撮りをすることになり、スケジュールをずらしたり、場所を設定したりと、忙しいことになりました。それでも仕事があるのはありがたいことです。

 

 昨日東急ハンズの帰りにJR新宿駅の改札近くで、若手マジシャンのライチ君に会いました。ライチ君はクロースアップマジシャンでプロ活動をしているようですが、高校の講師も続けているようです。それはいいのですが、その服装がずいぶんと傾(かぶ)いています。マジシャンと言うよりもお笑い芸人のようで、それも相当にとんだお笑い芸人です。どう見ても固い勤め人には見えません。

 これはこれで、自分自身が一歩芸人の道に踏み込んだことのあかしなのでしょうからいいと思います。いろいろな人がいていいのです。しかし、まるで着物の襦袢の裏地みたいな生地をつなぎ合わせてこしらえたようで、すごい恰好です。この姿を高校の生徒が見つけたなら、なんと言うのでしょうか。生徒に、まじめに生きろとは教えられないでしょう。「私のように、楽して儲けなさい」。とでも言うのでしょうか。そうならぜひとも人生賭けて、楽して儲ける実績を上げてほしいと思います。

 

 私の親父は南けんじと言うお笑い芸人でした。スイングボーイズから脱線ボーイズと言うコミックバンドをこしらえて、ひところは人気がありました。それでも私が5歳くらいになるともう人気は陰っていました。そのころ私は大田区一ノ蔵と言う町に住んでいました。親父は、仕事がないと私を連れて、一ノ蔵から、池上街道の旧道を歩いて、呑川(のみがわ)を渡り、池上の爺さんの実家に行きます。

 この道を散歩しながら親父の話す世間話を聞くの が面白くて、私は幼いころから親父と散歩するのが楽しみでした。親父は、体が小さい割には肩幅があって、ころっと太っていました。顔は何とも愛嬌があって、話は抜群に面白く、日常の何でもない話でも、親父の話術にかかると爆笑になりました。それゆえに、行きつけの飲み屋、洋食屋など、どこへ行ってもみんな親父の話を聞きたがり、どこでも人を沸かせていました。

 散歩の途中、呑川を超えたところにポツンと一軒、古びた古本屋がありました。親父は自分の読んだ古本を売り、他の本を買ったりしていました。金のないときは、自分の大切にしていた本を売って金にしていました。そこで得た小銭をもとに、私を爺さんの家に預け、当人はパチンコ屋に行きます。親父は天才的に博打が上手です。うまく取れればいいのですが、取れないとなると、池上の遊び仲間を集めて、ビリヤード場に行き、賭けビリヤードをします。これは弱い仲間ばかり集めてやっていますから間違いなく勝てます。時には麻雀をするときもあります。

 とにかく金を作ると、私を呼びに来て、ビリヤード場の近くにある東洋軒と言う洋食屋でハンバークを食べさせてくれたり、寿司を食べさせてくれたりします。そこに爺さんが合流して、親子で酒盛りになることもしばしばで、上機嫌で飲んではまた旧街道を二人で歩いて一ノ蔵へ帰ります。

 

 それが私の5歳の頃ですから、当時の親父は35歳です。今思うとその頃の親父はずいぶん老けていたなぁと思います。親父はすでに35歳で仕事が少なかったのです。仕事がないため、パチンコや、ビリヤードで小銭を作り、自分の遊びの金を作っていました。しかし家に入れる金はできません。しばしば夜になると金のことで夫婦喧嘩をしていました。

 私が中学、高校になって、自分自身でも舞台に立ってマジックをするようになると、親父の笑いの作り方に嫉妬するようになります。どう話をしても親父のように面白おかしく話すことができないのです。

 大学を卒業するころに私は正式にマジシャンになりましたが、その時、お笑いの道に行きたいとは思いませんでした。いや、やってみたいとは思いましたが、そこへ踏み込むのは躊躇しました。それは親父の才能を目の当たりに見て育って、とてもあそこには行けないなぁ、と考えたからです。

 しかも、親父はほとんど稼いでいませんでした。「なぜあれほど面白い人が、収入にならないのか。結局お笑いと言うものは仕事にならないんだなぁ」。と思っていました。そうした中で、マジックは子供のころから好きでしたし、仕事の量も多いし、結構高いギャラも取れていたところから、マジックを仕事にしようと、考えたのです。

 何にしても、親父の生活を見ていると、私にはどうしてもお笑いがいい仕事とは思えなかったのです。そんな親父の姿を見て、ツービートは、親父の発想を学ぼうと、必死で仕事先まで追いかけて来ました。私はそれを見て、「そんなことしたって結局稼げないのに」、と思っていました。実際、昭和40年代までのお笑い芸人のギャラはお粗末でした。どんなに売れても一生楽に生きていけるほどには稼げなかったのです。お笑い芸人が億の金を稼げるようになったのは、ツービートが出てからなのです。

 私の芸能の原点は、池上街道を親子で散歩する姿です。全然金のない親父と一緒に、親父の面白い話を聞きながら、キャッキャと笑って、手をつないでさびれた街道を歩く、あの姿が今も目に強く焼き付いています。良くも悪くも、あの体験が私の人生を決めていたのです。