手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マギー司郎さんのこと

 マギー司郎さんは私よりも8歳年上です。ナポレオンズのお二人とは2歳違いですので、話も合うのですが、マギーさんとは一世代違います。しかし47年間ずっといい仲間なのです。一昨昨日の公演はやっていてもとても楽しいものでした。楽屋も和気あいあいとしていました。

 ところでマギーさんです。この人は不思議な人ではあります。まず、この人は住所がどこなのか、いまだにわかりません。今は携帯電話がありますから、何とか連絡は取れますが、かつてはこちらから電話のしようがなかったのです。

 若いころは、ストリッパーのお姉さんのところを三人くらい、掛け持ちして暮らしていたようです。そのストリッパーも、白人あり、黒人あり、国際色豊かだったようです。「マギーさん、そんなにいろいろな人と付き合ったら、外国人の子供なんかできなかったの」。と聞くと,話はうやむやになってしまいました。

 結局、日本人の彼女なのか、奥さんなのか、よくわかりませんがそうした人が一人いて、その人と暮らしているらしいのですが、それもずっと続いているのかどうかもわかりません。要するに、普通に家庭を持って、子供を育てて生きると言うことをしていないのです。気ままにあっちこっちを泊まり歩いているようです。

 昔、CRマギー司郎とか言うパチンコ台が出て、私の知人が大塚のパチンコ屋で、マギーさんがマギー司郎のパチンコ台で遊んでいたのを見たそうです。「全然出ない」。と文句を言っていたそうです。自分の台で金を擦る奇術師も珍しいですが、今も、ふらりとパチンコ屋に行ったり、風俗にも出かけて行くようです。至って気ままです。それでも、普段、乱れた格好をすることがありません。

 マギーさんはおしゃれです。シャツでも服でもこまめに変えていますし、服装にもこだわっています。根の深い所では結構ちゃんとした生活をしているのです。そうではありながら、一体どこに衣装を置いて、どこで着変えているのか、一切、暮らし向きを見せません。謎多き人です。

 

 マギーさんは茨城県の下館に生まれて、学校を出たのかでないのか知りませんが、たぶん途中から東京に出て来てバーに勤めます。そのうちに日本奇術連盟に入って、マジック教室に通うようになります。このころ高木重朗先生などと知り合い、マジックの知識を身につけて行きます。恐らくこの時、連盟の幹部で、プロマジシャンのマギー信沢さんと知り合い、信沢さんの弟子になります。

 私が知り合った時は、初めはジミー司(つかさ)と言う芸名でした。ジミーさんだったのです。ここではマギーさんで通します。さて、マギーさんは、信沢さんの仕事を手伝いつつマジックの修行をします。

 その、マギー信沢さんと言う人は、カードや4つ玉、メリケンハットなどのテクニック物を得意としていて、特にメリケンハットは、あの、よれよれの帽子を裏、表とめくっているうちに、ヒョコっと人の顔くらいの大きなゴム風船が出てきます。それが何個も何個も出て来るものですから、とても不思議でした。

 私は一度、信沢さんに、メリケンのやり方を教えてください。と頼んだことがありましたが、あっさり断られてしまいました。信沢さんの技は絶品で、仲間内からは一目置かれている人でした。しかし、その風采は、痩せて、小さな人で、髪の毛はポヤポヤっとしか生えていなくて、目鼻の小さな人で、およそ舞台映えのする人ではなく、見るからに場末感の漂う人でした。

 それゆえか仕事には恵まれず、ほとんどはストリップ劇場の、ヌードダンサーの合間に出る、色物芸として全国を回っていたようです。その師匠にマギーさんもくっついてゆき、舞台を手伝います。ヌードの色物は、楽屋に泊まります。楽屋の布団は敷布団と掛布団がひとつあるだけです。仕方なく布団を柏餅のように半折にして、掛け布団を信沢さんが、敷布団をマギーさんがくるまって寝ます。そんな師匠の姿を見て、「自分は見習いだからどんな生活をしてもいいけど、師匠のように芸のある人がこんな生活をするのは気の毒だ」。と思ってマギーさんは、毎晩涙を流したそうです。

 

 やがてマギーさんは独立をして、キャバレーの仕事や、松竹演芸場に出演するようになります。そのころようやく私と知り合います。このころはマギーさんも四つ玉や、ステッキなどを演じていたのです。なかなか鮮やかなマジシャンだったのです。

 しかし、何と言ってもマギーさんの面白さはその喋りです。客席のお客さんにカードを選んでもらう時でも、「ねぇ、一枚引いて、お願い、ちょっと、ちょっとでいいから引いて」、そんな喋りをします。それでも引いてくれないと文句の一つも言いたいところですが、マギーさんは「ダメ?、引いてくれないの?、そう、疲れてんのね」、と、カードをひいてくれないお客さんの体を気遣います。こんなところが、マギーさんの人柄なのかと思います。 ほどなく、テレビのお笑いスター誕生の番組で評判になり、知名度を上げて行きます。

 マギーさんは自分が一般に知られるようになると、信沢さんを師匠と立てて、事あるごとにテレビに出しました。しかし信沢さんはテレビで騒がれることはありませんでした。あまりに地味な人だったからです。

 ある時、信沢さんの住んでいるアパートから連絡があり、信沢さんの部屋から異臭がする、と言われ、マギーさんが出かけて大家さんの立会いの下、鍵を開けてみると、信沢さんが亡くなっていたそうです。誰にも看取られることなく、死体は腐敗していたそうです。元々信沢さんは、立派な家に生まれ、何不自由のない生活をしていた人なのですが、芸人になったことで勘当され、家族もいないため、葬式の一切はマギーさんが出したそうです。

 昔から、芸人は末路哀れ。と言われますが、信沢さんは、その通りに人生を送ったことになります。それでも、マギー司郎と言う一粒種のマジシャンを育てたことが、信沢さんの寂しい晩年の中でも、わずかな救いだったのではないかと思います。

 実際マギーさんは、マギー信沢の名前を絶やさないようにと、信沢さんの晩年に、マギー司郎と改名しています。マギーと言う名前はマギー司郎さんによって残されることになったのです。信沢さんは嬉しかったと思います。今、マギー一門は、マギー審司ほか、30人くらいいます。

 信沢さんの芸と、マギーさんの芸は全く違います。それでもマギーさんによって次の世代につなげて行けたことは良かったと思います。マギーさんとは今も合えばいろいろな話をしますが、別段そう意味のある話はしません。ただ会って、とりとめのない話をするだけですが、それが楽しいのです。私にとってマギーさんは最高の仲間です。