手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロとして生きる

 プロマジシャンになると言うことはどういうことでしょうか。一見プロの存在は見慣れたものですが、実際自身がプロになるとすると何をどうしていいのか、見当がつきません。プロマジシャンにライセンスはありません。自分でプロを宣言すればその日からプロです。宣伝写真を撮って、名刺を刷って、プロフィールを作って、ある事ないこと書きまくって、膨らませて書いて、それを仕事をくれそうな事務所や、企業に送って、さて、かかってくる電話を待っていればやがて出番のチャンスが来るでしょう。嫌々、それで本当に仕事が来るでしょうか。

 来る日も来る日も電話の鳴るのを待ち焦がれ、仮に仕事の依頼が来たとして、それで毎月数本の仕事が間違いなく埋まり、生きて行くことに不安のない人生が約束されるでしょうか。それが来ないとしたらこの生き方に何か間違いがあると思いませんか。

 

 私はこれまで、マジック好きな少年が、あちこちのコンベンションに顔を見せて、コンテストでいい演技を見せて、人の話題になって騒がれて、さて、プロになると宣言をして、2,3年もすると全くこの社会で見ることがなくなってしまうのを嫌と言うほど見ています。なぜそんなことになるのでしょうか。どうしたらマジシャンはプロとして豊かに生きて行けるのでしょうか。

 

 マジシャンに限らず、どんな仕事でも、そこで生きて行こうとするなら、まず自身の立ち位置をしっかり見極めなければいけません。一つの社会の中にあなたが生きて行けるポジションがあるかどうか、そこの自身の見極めがいい加減だと、何十年たっても誰からも相手にされない結果になります。あなたがこの道で存在する価値があるかどうか、を3つのことから考えてみましょう。

 

1、あなたの技量。

 あなたはマジック界でどの程度の力量のマジシャンなのですか。例えばカードの技法、パスでもサイドスチールでも、人並み以上にうまくできる、と自負している人が、本当にそれがうまいのかどうか。お金を支払ってでも見たいと思う技なのかどうか。そこを見極めることです。案外自分がうまいとは思っていることが、それと同じことのできる人は世界で一万人いるかもしれません。あなたが技術だと信じていることは、実はこの世界では当たり前のことではないのですか。

 例えば、あなたが技を駆使して、相手の選んだカードを当てたとして、それでどうしてお客様があなたにギャラを支払いたいと思うのですか。あなたのカード当てとお客様の人生は全く無関係ではありませんか。カード当てと言う、全く浮世離れした行為を見て、それがどうしてお客様が自分のことのように喜べるのですか、

 カードを当てると言うことと、お客様がそれを自分事とすることの間に、何か人の心を動かす魔法がもう一つ存在するとは思いませんか。そこがわからなくて、カードを当てただけで収入になると思いますか。実はプロになるには単なるカードの技法のほかに、人の心を動かす技法が必要なのです、その技がなければプロとして生きて行けないのです。さてそれをあなたはご存じでプロになろうとしていますか。

 

2、他のマジシャンと比べて何が優れているのですか。

 マジックの技は未熟でも顔がいい。スタイルがいい、一緒にいると何となくステータスを感じさせてくれる。つまりスター要素がある。あるいは頭がいい。話の展開が面白くて、人の気持ちをそらさない。そんな人なら自然自然に人が寄ってきて、あなたを使ってみようと考えるプロデューサーも現れます。あなたは本当にそんな人ですか。あなたの何が人を超えて優れているのですか。そこの見極めがあいまいでは、あなたの能力が収入にはつながりません。

 

3,マジックにあなたの世界がありますか。

 当たり前に売り物のマジックをして、誰でもするような手順で、営業と称するあいまいな仕事をしていながら、それをプロ活動だと勘違いしていませんか。そんな活動を3年続けていても、誰からも注目されることはないでしょう。それでこの先生きて行くことが不安だと言うなら、その生き方は間違いなく不安そのものです。

 あなたの演じるマジックがあなたの世界を表現していますか。あなたしか作り出せないとびっきりの夢の世界を見せていますか。道具や、手順の羅列でマジックを見せていませんか。あなたでなければ表現できない世界を作ろうとしないで、いつしか小銭稼ぎで生きるマジシャンになろうとしていませんか。それでなぜ売れないかと悩んでいても、答えは既に見えているでしょう。だめを繰り返しているのです。だめはいくら繰り返してもだめです。早くだめに気づくことです。

 

 と、こう書けば、これからプロになろうとする人はみんな落ち込むと思います。そうです。落ちこんでいいのです。実は、プロとして生きると言うことの第一歩は、自分のだめを知ることから始まるのです。多くのプロになろうとする人は、みんな自分は人より優れていると信じています。でもそのほとんどは幻想です。根拠のない自信です。間違いなく言えることなのですが、世間はあなたに全く期待をしていません。あなたが優れたマジシャンであることを誰も知りません。

 にもかかわらず、あなたは勝手に自分が才能があると思い込み、それを第三者に否定されると勝手にもう駄目だと思い込みます。でもよく考えてみれば、初めから誰もあなたに才能があるとは思っていませんし、才能があってもなくてもあなたはこれまで世間に何の影響も与えていないのです。

 プロマジシャンを目指すなら、まず体に背負っているどうでもいいことを捨てることです。本当にプロとして生きていきたいなら、名前も、人気も、収入もすべての欲をいったん捨てて、自分のだめを見つめることです。その上で、プロマジシャンになると言う、たった一つの目的を信じて生きるのです。あなたがプロになったのではなく、世間があなたにプロとして生きて行くポジションを与えてくれたのです。それに感謝を感じたのなら、あなたはそのお返しとして「自分の持っている能力の中で何が人に役に立つか」を考えることです。自分がどうにかなることではなくて、人があなたの演技を見て、「何か救われた気持ちになる」、「一瞬でも嫌なことを忘れられる」、と思ってもらった時に、人はあなたのそばに寄ってきます。あなたがマジシャンとして生きて行けるかどうかは人の役に立ったかどうかで決まるのです。

 よくよく考えてみたなら、自分の才能など大したものではない。と気づくことがプロの道の第一歩です。自分のだめを知って、今まで「才能だ、能力だ」と思っていたことを根本から見直してみることです。「そんなことはわかっている」「「いまさらそんなことをしなくても」と思うようなことをもう一度稽古してみるのです。こんな稽古は地味で味気ないものです。然し一人黙々と続けてみることです。

 すると、意外にも自分が知っていると思うことが全く分かっていなかったり、出来ると思っていたことが少しもできていなかったりすることに気付いてきます。そうなるとこの地味な活動が面白くなってきます。できると思うことに間違いがあり、出来ないことに目をつぶっていた自分に気づきます。それが自身の未熟と知ります。この時、少しあなたはプロの道を知ります。プロの人生は派手で明るいものではありますが、その陰には地味で自己批判の連続の人生が控えていることを知ります。

 自分のだめさ、未熟さ、弱さを知ることで、どう生きるか、どうしたらよりよくなれるかを知るのです。そして自身の弱さを知ると、人の弱さに気づきます。おのずと人にやさしくなります。人にやさしいマジシャンのマジックを見ると、お客様は救われた気持ちになってゆきます。あなたが、一生かけて人の役に立つ芸能人としての人生を探し続けて行く根気があるかどうか。プロの道はそこを問い続けます。仮に一生かけても大して人の役に立たなかったとしても、そうして生きる人生に満足しているなら、それがプロとして生きる答えだと思います。

 

 私は色紙を頼まれると、よく「往く道に花あり」と書きます。これは、芸道とか、マジック道などと大上段に人生の道を語ろうとすることへの戒めです。多くは道を究めると言うと、道の先に何か極上の世界が待っているような印象をあたえてしまいます。しかし、仮にマジック道があるとして、行った先に何かがあるのかと問われても、何もないかもしれないのです。

 マジックを自らの天職と信じて生きるなら、行ったこともない道の先の、見たこともない極上の世界を語るのではなく、歩く道々に自然に育った雑草が花を咲かせていることに気づくことが大事なのだと思います。雑草は誰が通るとも知らない道にでもしっかり花を咲かせて、通る人を楽しませています。そうして、人を楽しませていながら人から見返りを求めません。美しいではありませんか、

 わずかな才能で小銭を稼ごうとするマジシャンの卑しい了見から比べたなら、雑草のなんと崇高なこと。それゆえに私は、往く道の先に何かを求めるのではなく、往くことそのものが目的であり、その目的とは往く道に咲く花の純粋な心を認めることだと言う意味で、「往く道に花あり」。と書いています。