手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

仲良し三組

 明日は、夜にマギー司郎さんと、ナポレオンズボナ植木さんと三人で一杯飲む会を開きます。年に3,4回、この三人は連絡し合って、一杯やるのを楽しみにしています。マギーさんと初めて会ったのは私が高校生の時ですから、50年近い前です。ボナさんとはそれより5年後ですから、それでも45年近く前になります。つまり我々は半世紀近い交流のある仲間なのです。

 しかも、マジシャンと言っても、三組はともに、全くマジシャンらしくない連中で、当時、マジック界の中ですら知られることもなく、金もなく、恐らく周囲の人から見たなら、数年の内には消えて行ってしまうような、泡沫マジシャンに見えたのではないと思います。しかし、今になってみると、周囲にいた優秀なマジシャンが廃業したり亡くなったりした中、結局この三組は生き残り、しかもまだ現役で活動を続けています。

 つまり一番パッとしない三組が生き残ったのです。

 

 我々三組がなぜ長く、仲良くやってこれたのかと言うなら、三組は早い時期から演じるマジックが違うため、競争がなかったことです。これまで仕事で一緒になることは何十回もありましたが、その時ですら、演目を打合せすることはありませんでした。私は手妻ですし、ナポレオンは頭回しや腕立て伏せ、マギーさんに至っては、ティッシュペーパーを右に耳に入れて左の耳から出す。と言うマジックですらないものでした。

 結果これがよかったのです。競わない、互いの邪魔をしない。自分の仕事先を持っている。これが互いが仲良く生きて来れた秘訣だったのです。

 その三組が集まって何を話すのかと言うなら、別段大した話はありません。マジックの話はありません。くだらないことばかり話します。しかしこれがいいのです。なんとなく昭和の時代を語りあうところが面白いのです。年齢は、私が64、ボナ植木さんが66、マギーさんは71です。マギーさんの71は相応でしょう。私とボナさんはむしろボナさんのほうが見た目は若く見られます。私は若いころからふけて見られました。

 この三組を後方支援してくれたのは、小野坂東さんです。通称東(とん)さんと呼ばれ、マジックショップ、マジックランドのオーナーです。東さんは我々を随分応援してくれました。常に、マジックとは何か、日本の若いマジシャンはこの先何をしてゆかなければならないかを熱心に話してくれました。我々はそれを実践し、行動することで東さんの活動に協力してきました。

 つまり、我々は小野坂小学校の生徒です。その校長先生が小野坂東さんなのです。我々よりも10年若い生徒に、クロースアップのヒロサカイさん、前田知洋さんがいます。東さんが熱心に面倒を見てくれたマジシャンはステージ三組、クロースアップ二組でした。

 

 さて、昭和の20年代のマジック界を先頭に立ってけん引していったのは高木重朗さんでした。師は、慶応大学を出、国会図書館に勤め、アマチュアとして、マジック界で指導を続けていました。早くから洋書を取り寄せ、翻訳して、海外のマジシャンの情報を書籍にするなどしてアマチュアに伝えていました。

 昭和40年代になると積極的に海外に出て、海外のマジシャンと交流を持ち、知識を増やしていました。その知識量は当時日本ではNo1で、まだ海のものとも山のものともつかないクロースアップマジックを日本に普及させたのは師の著述による功績が大でした。ある時期は、マジックの国内大会などに高木師が現れると、わっと人垣ができて中の高木師が見えなくなるほどの人気でした。

 当然それだけの人なら、お付き合いを持たなければならないと考え、私は20歳の頃、国会図書館まで何度も出かけ、師からいろいろな話を伺いました。高木氏はよく私の面倒を見てくれました。私が今日あるのも、お世話になった5人の先生がいたからで、その5人のうちの一人が高木師です。高木師のことはまた別項でお話ししますが、その師を脇で支えて、マジック本のイラストを描いていたのが小野坂東さんでした。東さんは都庁に勤め、長らくアマチュアで活動していましたが、ある時期都庁をやめ、マジックショップの経営を始めます。マジックランドです。

 

 東さんは、高木師がいかに知識量が多いと言っても、海外のマジックを訳して、それをアマチュアに教えると言う行為を繰り返しているだけで日本のマジック界を引き上げることができるだろうか。と疑問を持つようになります。むしろ実際にマジシャンを招聘して、その演技を若い人たちに見せたほうがよいのではないかと考え、早速実践に移します。まず都庁をやめ、マジックショップを開き、海外のマジシャンを招いてレクチュアーと演技を見せ、やがてはマジックコンベンションを開催するようになります。

 文章に書けばただそれだけのことですが、実際人を招いて、お客様を集めて、演技を見せると言う行為は大変なことで、仕事は山のようにあり、財産はみるみるうちに消えてゆきました。元々が都庁の役人で、全く金儲けを考えたことのない人ですから、どうやっても利益は上がりません。

 我々三組は度々東さん主催のコンベンションに出演させていただいて、せめて頭数の足しになるべく、協力させていただきました。東さんにすれば、こうして、海外ゲストを招いて、実際の海外のレベルと言うものがどんなものなのかを知らしめる行動をしながらも、その先に日本がどういうアンサーを出さなければならないか、を模索するようになります。やがて、日本の若手が出て来て活動してゆかなければ将来がないと気づくのです。

 

 そもそも、東さんは、当初は、海外の優れたマジシャンと接触を持つことには熱心でしたが、国内のマジシャンには冷淡でした。半ば国内マジシャンをあきらめた目で見ていたように思います。しかし、実際コンベンションなどを運営すると、海外勢ばかりでは世界大会にはなりません。世界のマジシャンと伍するような日本の若いマジシャンが出てこそ世界大会に意義があります。

 そこで、少しずつ若手を育てようと言う機運が生まれます。幸いに我々はその中にいたことになります。当時テレビで知名度を上げて来ていたナポレオンとマギー司郎は文字通り世界大会の看板として、出演協力をするようになります。私は、日本の古典奇術を演じる立場として、出演するようになります。当初東さんは手妻には何ら興味はなかったようですが、ある時、手妻の奥に語られている内容に気づき、以来私の芸を大変評価してくれて、海外の大会や、国内大会に積極的に使ってくれるようになりました。

有難いことです。

 その後に私は、手妻をする傍ら、東さんのプロデュースの仕事を一部引き継ぐ形で、SAMの日本地域局を起こし、毎年日本国内で世界大会を運営することになるのですが、これは私の人生を大きく狂わすほどの大仕事でした。当時私は自分自身を、先の読める男だと自負していたのですが、この思い上がりがとんでもない人生の失敗につながってしまい。貴重な時間と費用を浪費してしまいました。

 このことは今まで誰にも話をしなかったのですが、そろそろ時間もたってきましたので、近々まとめてお話しします。そうしたSAMの活動にも、マギーさんやナポレオンは積極的に協力をしてくれました。有難いと思っています。

 

 さてその長い長い交友関係を持つ三組が明日酒を飲みます。今から楽しみです。この三組の会が11月29日に座高円寺でありますが、もうチケットはほぼ完売です。残席数枚ですが、ご興味あったらお申し込みください。若手のアキットさんも人気上昇中でファンの数がものすごいです。原大樹さんはもうベテランの域に達しています。片山幸宏さんは今、最も熱の入ったスライハンドマジシャンです。乞うご期待。