手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

バーノン師の芸

 今日は朝から鼓の稽古、鼓はお師匠さんが私の自宅に来てくださいます。そのあとは日本舞踊の稽古で本郷に出かけます。二つの稽古は私にとってとても楽しいひと時です。伝統芸能にどっぷりつかっている面白さを堪能できます。

 

 私は20代で毎年アメリカに行って都合4回、キャッスルに出演をしました。当時ロサンゼルスで、日本のマジシャンは珍しかったらしく、毎年マジックアカデミーから表彰されました。なかなか日本国内で手妻が評価されず、自分自身がこの先どういうマジックをしていったらいいのか悩んでいるさなかでしたから、アメリカで評価されることは手妻で生きて行きたいと思う気持ちの励みになりました。

 そんな中、キャッスルに行くと、毎日ダイバーノン師に会います。師は、ものすごく度のきつい眼鏡をかけ、煙草をくゆらせながら、ウイスキーのグラスを常に脇において、カードマジックをします。師の名作、スコッチ&ソーダ、であるとか、ポケットに通うカードであるとか、スリーカードモンテ、など、惜しげもなく見せてくれます。

 ちょっとレクチュアーをしてくれる時もありますが、終わった後に謝礼を払おうとすると、一切受け取りません。疲れたら、ソファーに座ったまま眠ってしまい、起きるとまたマジックを始めます。まったく気ままな人生です。

 

 私は師に様々な質問をしましたが、師はどの質問にもはぐらかすことなく答えてくれました。右手にあったコインを左手に渡し、さらに右手でテーブルのコインをつかむ、左右の手にコインがあって、それが右手に移る。単純なマジックです。この時いくつかパームを見せて、師に、「どのパームがいいでしょうか」と質問すると、「どれもいい。でも君はなぜコインをパームするのか」と、問われました。なぜと問われても困ります。パームしなければコインが移らないからです。しかし、それはマジシャンの都合だと、師は言います。

 「シンタロー、右手のコインを安易に左手に渡すことは間違いだ。テーブルの真ん中に二枚のコインを置いて、それを左右の手で一枚ずつつかんで握ることが目的なら、それぞれ、左右の手で一枚ずつコインを取るべきだ。普通ならそうするね。でもこの場合は、マジックの都合で右手でコインをつかみ、左手に渡したいわけだね。

 そうなら、初めにコインはテーブルマットの右側に置くべきだ。右側にあるコインを右手で取ることは自然だ。しかし、その次に、残ったもう一枚のコインを左手ではなく、また、右手で取らなければならない。なぜなら、もう一枚のコインも右側にあるからだ。ところが、マジシャンはそれを当然のように右手にあるコインをパスとパームをして左手に渡し、右手で二枚目のコインをつかもうとする。でも、なぜ右手ばかりを使うのか、そこを観客に、自分の気持ちの動きを伝えた上で、パスをしなければ、全く不自然な動作になってしまう。自分の気持ちをあらかじめ伝えることが必要なんだ。

 つまり、1、右手で取ったコインを何気に観客にアピールして見せる、2、次に、もう一枚テーブルにコインがあることを演者は見る。3、コインの存在を見て、右側にあるコインを右手でとりたいと思い、4、今持っている右手のコインを左手にパス、パームする、5、そして右手でもう一枚のコインをつかむ。これで右手のコインを左手に預ける意味付けができる。」

 全く目からうろこの話でした。多くのマジシャンは、この、2と3の心の動きを省略して、いきなりパスするためにコインを右手で取って来てしまいます。これはいけないと言うのです。そして、私が質問した、「どんなパームがいいか」と言う話は一顧だにしません。1から5までの段取りがしっかりできていれば、どんなパームでもいいのです。相当に下手なパームでも、気持ちの流れが観客に伝わっているなら、それはマジックとして成り立ち、不思議が発生するのです。

 私はそんな基本的なことに今まで気づきませんでした。師がしばしば語る、ビーナチュラル(自然に)と言う言葉は知ってはいました。しかし、マジックを自然に演じるとは具体的にどういうことか。本当には理解していませんでした。

 

 師自身がしばしば、両手をもむ動作で、右手のコイン、またはカードを左手に移したりします。この動作はしばしば師自身が癖でよくする動作だそうで、その自身の癖の中にマジックをすり込ませることが自然だと師は話します。しかし、例えば、私が演技中に手を掴み洗いするような動作をしたらかえって不自然に見えます。ビーナチュラルは師のマジックを凝縮したメッセージですが、いざ実践するとなると、一つ一つ、自身が自身の動作を見直して、自身の動作に技法を刷り込ませて演じなければなりません。すなわちこれはマジシャンのセンスを問われることになるのです。

 また、師の演技が何から何まで自然に行われているかと言うなら、必ずしもそうとは思えません。やはりそこには時代の差があるのです。恐らく師の若いころのクロースアップはとんでもなくおかしなことをするマジックだったのでしょう。その時代の演技と師の演技を比べたなら、極めて自然なマジックに見えたのだと思います。

 

 そもそも師の若かりし時代、日本でいうなら大正から昭和の戦前まで(1912~1945)くらいの次期はまだクロースアップというジャンルはなかったようです。

ダイバーノン自身、クロースアップで生活はできなったようです。クロースアップは、ステージマジシャンの余技、またはアマチュアの趣味だったのです。クロースアップで生活が成り立つようになったのはアメリカですら1960年代以降で、日本でクロースアップで生きていけるようになるのはヒロサカイ、前田友洋が出てからのことだろうと思います。

 むろんそれ以前にもクロースアップはあったのですが、バーのマスターがサービスで見せるクロースアップぐらいがせいぜい稼げるマジシャンで。単独にクロースアップを見せて生きて行けるようになるのは1980年代以降だったろうと思います。

 

 当然のごとく、バーノン師はクロースアップでは生活ができません。そこで師は、若いころはナイトクラブや酒場などでステージマジックを見せて生活していたようです。シンフォニーオブザリングやコーンとボール、バーノンのロープ切り、等はその頃の師の手順そのものなのです。その時代の師の演技がどんなものだったかを高齢のアメリカのマジシャンに聞くと、およそ地味で、ぱっとしないマジシャンだったようです。しかし、テクニックがあるため、マジック関係者には人気があったようです。

 晩年の師の演技を見れば、確かに、師の舞台は花のない、地味な芸であったことは想像ができます。カナダ系のアメリカ人で、癖のある話し方。話下手で、極度なあがり症で、およそタレントとしての輝かしさは見られなかったようです。師自身も心の中に強い劣等感を持っていたようです。

 

 当時、師が最も尊敬していたのはマックスマリニーでした。マリニーは、今日でいうクロースアップマジシャンではなく、ステージ、サロンマジックの中にクロースアップの要素を色濃く取り入れたマジシャンだったのです。しかし、マリニーがテーブルを前に置いて、椅子に腰かけてマジックをしたことはなく、カードでもコインでも、スタンドアップの形式で演じていました、こうした点で、彼はクロースアップマジシャンではないと言う人もいます。ところが、マリニーを否定してしまうと、今クロースアップを演じている人はほとんどがマリニー式に立って演じていますので、矛盾が発生します。今日では椅子に座るクロースアップのほうが数が少なくなっています。

 話を戻して、マリニーは、ボードビルや、安い酒場でのスタンドアップショウには出演せず、金持ちのプライベートパーティー専門に回る、上級クラスのマジシャンだったのです。マックスマリニーに関してはまた別項でお話ししましょう。

 

 バーノンは、時折、一般劇場で見せるマリニーの舞台を欠かさず見たようです。師は大変にマリニーを尊敬していて、マリニーの演じたマジックをどれもまるで神業のように語りました。実際マリニーと言う人の評価は、後年、バーノンが語ったことによって神格化されます。同時期にマリニーを見た人の話によると、マリニーはバーノンが言うほどの人ではなかったと言います。これはバーノンがマジックを見る評価が甘かったと言うことではなく、心底、マリニーにほれ込んでいたと言うことなのでしょう。

 サロン、クロースアップ系のマジックで高額なギャラを取り、金持ちと同等の生活を実践して見せたマリニーは、若きバーノンには憧れの存在だったのでしょう。私の想像ですが、恐らく師は、マリニーに弟子入りを申し込んだ可能性があります。そして恐らく冷たい目であしらわれ、相手にされなかったでしょう。純粋で素人臭いバーノンと、狡猾で利に敏いマリニーの二人の性格を思えば、大体の二人の会話は想像ができます。

 しかし、バーノンはマリニーの舞台を追い続けます。演技を始める前に、マリニーがテーブルの上に帽子を置き、やおらマジックを始め、一時間に及ぶショウをした後に帽子を持ち上げると、そこに氷の塊があったと言うのです。その氷の塊をいつ帽子入れたかがわからず、毎日見に行ったのですが、種がわかりません。お終いに、マリニーの演技は一切見ないで、初めから終いまで帽子をじっと凝視していたそうですが、やはりお終いに氷が出てきたそうです。このことをバーノン師は、まるで昨日、神業を見てきたかのように半世紀前のことを話します。マリニーにとってもバーノンにとってもこの関係は幸せな関係だったと言えます。

 

 バーノンはステージでは恵まれたマジシャンではありませんでしたが、少数のクロースアップ愛好家に守られながら、何とか指導などで生活し、少しずつ、サロンからクロースアップを切り離し、テーブルを前に、椅子に座って少数の観客を前にカードやコイン、カップ&ボールを見せる、今では古典となったクロースアップマジックの形式を完成させます。その過程で、何とも怪しげな動作をしていた当時の悪習を廃止し、今日のクロースアップの原型を作ってゆきます。

 更に、それを著作にして、いくつも公開したため、海外にも、師のファンが増えて、師はクロースアップというカテゴリーを作り上げたマジシャンの一人として高い評価を受けるようになります。生前からプロマジシャンに「プロフェッサー」と呼ばれ、尊敬されていました。

 バーノンはロサンゼルスに移り、その後マジックキャッスルができると、オーナーのビルラーセンの好意でキャッスルの専属になります。その晩年は、多くのマジック愛好家やプロマジシャンに囲まれ、幸せな人生だったようです。

 私は、師の好意でいくつかマジックを習いましたが、その教え方は、ニューヨークのスライディーニとは全く真逆の指導方法で、びっくりすることばかりでした。そこがどう違うかについては、次回、スライディーニのマジックでお話ししましょう。