手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

歴史上の人

 今日は、午後から澤田隆治先生の事務所に伺います。

そこへ前田将太を連れてゆきます。

澤田先生に弟子の大樹のリサイタルチケットをお渡しすることが目的ですが、

前田を連れてゆくことは、歴史上の偉大な人を目の前で見ることを体験させたいと考えて、連れてゆきます。

 澤田先生と言う人は、テレビ開局以来のプロデューサーで、古くは「てなもんや三度笠」とか、「ズームイン朝」「花王名人劇場」など、強力な視聴率を取った番組を次々と制作し、漫才ブームを起こし、マジック界ではナポレオンズを育てた名プロデューサーです。今も私のリサイタルのプロデュースをしてくださって、大阪の国立文楽劇場のリサイタルなどで、多くのお客様を紹介していただき大変にお世話になっています。

そのため、年に数回はご挨拶にお伺いしています。

 私の経験でもそうですが、子供のころ、父親や、清子師匠に連れられて、名人や実力者に合わせてもらったことが今も忘れられません。何気についていった仕事先なのですが、 そこで、古今亭志ん生師匠にお会いしたり、講釈の名人、一龍齋貞丈師匠にお会いしたり、当時、会おうと思えば何度も会えたはずですが、結局、その時会ったのが一度きりと言うことはずいぶんありました。人の縁と言うのはそんなものです。

 志ん生師匠はもう自分で歩くこともままならず、お弟子に抱えられて寄席を出て来たときに入れ違いになりました。歩くのがやっとなのに、すれ違いざまにぷーんと酒の香りがしました。今思えば師匠らしいなぁ、と思います。昭和41年に志ん生師匠の酒の匂いを嗅いだことは私の歴史です。

 松旭斎天洋師匠から一時間以上も天一の話を聞いたのもその頃です。それも、翌日もまた翌日も連日天一の話を語り続けました。当時、天洋師は70を超えていて、顔は皺だらけでした。しかし、瞳は真っ黒で、大きくて、嘘偽りのない澄んだ目をしていました。その目でまっすぐに見つめられて、いかに天一先生と言うのは素晴らしい人かを語られたことは、私にとって生涯忘れられない思い出になりました。

 後年、私が「天一一代」と言う本を書くことになるのも、あのまっすぐな天洋師の瞳がそうさせたのだと思います。

 

 話は少しそれますが、私が20代の頃、よく田中角栄さんの演説会のアトラクションに出させてもらいました。田中角栄さんと言うのはとても人に気を遣う方で、自分が演説会をするときに、もしも仕事の関係で遅れたりしたら、来た人たちに迷惑がかかると言うことで、毎回、マジックを入れていたのです。およそ政治家の演説会にマジックを入れる政治家と言うのは聞いたことがありません。しかし角栄さんは私のマジックが気に入っていたのか、ずいぶん何度も頼まれました。そのため頻繁に長岡や、三条などの小学校に早朝に出かけて行ったのです。

 角栄さんの到着が遅れた場合、私が先に壇上に上がるのですが、角栄さんは気が短いのか、ヘリコプターに乗って、相当早くに現地に着いてしまいます。そうして、着いたなら、楽屋で待つなんてことのできない人ですから、ヘリコプターが小学校の校庭につくと、直接体育館に入り、客席からみんなと握手をしながら前に出てきて、そのまま演説を始めてしまいます。

 私は、角栄さんが見えた途端に、懐に隠していた鳩を鳥籠に戻して、私のショウは後回しです。あとは舞台袖で角栄さんの演説を聞くことになります。

 この演説が絶品でした。とにもかくにも角栄さんほど人の心をつかむことのうまい人を知りません。昭和40年代まで、雪の多い新潟は、冬場に仕事がありません。仕方なく男は東京に出稼ぎに行きます。金を作るために何か月も夫婦は別れて暮らします。角栄さんは、何とか家族一緒に正月を迎える方法はないものか、と考えます。それには新潟に会社や工場を持ってくればよいと気が付きます。そこであちこちの企業に新潟誘致を交渉しますが、新潟へ行くことの不便さ、出来た製品を陸路で運ぶことの不便さから、どこの企業も手を上げてはくれません。それなら新幹線を引っ張ってきて、関越自動車道を作って、トラックでも新幹線でも3時間以内で東京に着くように作ってやろうと考えたのです。このことの苦労を角栄さんは面白おかしく語ります。

 とにかく、角栄さんの努力でで新潟は不便な土地ではなくなりました。こんな話を熱弁すると、体育館に座っている新潟県の人々は面白がって聞いています。しかし、少し話が理屈っぽくなると、角栄さんは、近くに座っているおばあさんの顔をみて、

 「婆ちゃん、子供はどうしている、新潟市で働いているのか、ふーん、孫はどうしている。東京で働いているのか。そうか、親子孫一緒に暮らしたくはないか。一緒に暮らしたいのか、そうか、よし、それなら俺が、この町に大きな工場を持って来てやる。その会社で息子と孫と一緒に働け。そうすれば毎日一緒に飯が食える。俺がきっとそうしてやる。」

 こんな風に言われたらお婆さんは涙が止まらなくなり、観客の拍手は止まらなくなります。仮に工場を誘致したとしても、そこに息子や孫がその会社に勤めに行くかどうかはわからないのに、一人の老婆を安心させようと言う思いで、会社誘致の話をする角栄さんは人の心を掌握する天才です。

 角栄さんの話は毎回変わるのですが、いつも面白くて、ためになりました。世の中を動かす人と言うのは理屈を超えたところに魅力があるのだと気づきました。

 

 話を戻して、若いうちに著名人や、偉大な功績を残した人と会うことは、とても大切なことなのです。それが案外自分の一生を決めてしまうことが多々あるのです。そう思えばこそ前田をあちこちに連れてゆきます。前田がどんなマジシャンになるかは未知数ですが、少しでも良い方向に導いてやろうと思っています。